ベルギーのジャズ・ギター奏者。中南部リベルシー生まれのロマ民族。本名ジャン・バティスト・ラインハルトJean Baptiste Reinhardt。母親はダンサー、歌手。少年時代からヨーロッパ各地を移動生活しながら、12歳でバイオリン、ギター、バンジョーを習得、ダンス・ホール、カフェなどで演奏する生活をおくる。このころからパリにも赴(おもむ)き、ジャズを含めたアメリカン・ポピュラー・ミュージックに触れている。1928年、アコーディオン奏者のサイドマンとしてバンジョーを弾いているのが現存する彼の最初の音源。同年、彼らのキャラバンが火災を起こし左手に火傷(やけど)を負い、それがもとでギタリストにとって大切な左手の薬指と小指が自由に使えなくなるが、残りの指で弦を押さえる独特の奏法を編み出す。傷が治癒するとベルギー、フランスを行き来し、ギター奏者としてダンス・バンドのサイドマンなどに雇われるようになる。
1931年、フランスのジャズ・バイオリン奏者ステファン・グラッペリStephane Grappelli(1908―1997)と知り合い、後に同じホテルのオーケストラで働くようになるが、それが縁で2人は気ままなセッションを重ねる。メンバーはこの2名に、ギター奏者であるジャンゴの弟ジョゼフ・ラインハルトJoseph Reinhardt(1912―1982)、ジャンゴの従兄弟のギター奏者ロジャー・チャプトRoger Chaput(1909―1994)、それにベース奏者のルイ・ボラLouis Vola(1902―1990)の5名で、彼らが楽屋で演奏するのを聴き、フランスのジャズ評論創始者ユーグ・パナシェHugues Panassié(1912―1974)がこのグループをファンに紹介するためのコンサートを開く。これがきっかけとなり1934年、グラッペリとの双頭バンド「フランス・ホット・クラブ五重奏団」が成立する。バンド名は1932年パナシェによって設立されたジャズ・ファン・クラブ「ホット・クラブ・オブ・フランス」にちなんで命名された。グループ設立後ただちにレコーディングが行われ、そのレコードを通じて翌1935年には世界的にその名を知られるようになり、ヨーロッパ各地を巡演する。彼らの演奏は、パリを訪れたテナー・サックス奏者コールマン・ホーキンズ、アルト・サックス奏者ベニー・カーターBenny Carter(1907―2003)らアメリカ人ジャズマンにも感銘を与えた。
1939年グラッペリが五重奏団を離れ、1940年代はクラリネット奏者ユベール・ロスタンHubert Rostaing(1918―1990)が加わり、これに通常のピアノ・トリオがつく新たな5人編成で、バンド名も「ジャンゴ・ラインハルト・スーベニアーズ」と変わる。
第二次世界大戦中もナチス占領下のフランスで演奏を続け、戦後1946年ピアノ奏者デューク・エリントンの招待でアメリカを訪れ、エリントン・バンドのゲストとしてコンサート・ツアーを行う。彼の演奏記録の集大成として『ジャンゴ・ラインハルト・オン・ヴォーグ』(1934~1952)などがある。
彼のギター奏法はロマの伝統に根ざし、アメリカのジャズ・ギターの系譜とはまったく異質なところから出ており、そのためアメリカのギター奏者への影響はさほど大きくない。しかし天性のリズム感覚と奔放な即興演奏がもたらす音楽的躍動感は、ロマ特有の哀感に満ちたメロディをまさに「ジャズ」としてしまった。ヨーロッパでは圧倒的な影響力を持ったギター奏者である。
[後藤雅洋]
オーストリアの演出家。9月9日ウィーン郊外バーデンに生まれる。初めオットー・ブラームにみいだされて、ベルリンのドイツ座の老役(ふけやく)俳優になったが、無味乾燥な自然主義に飽き足らずに独立し、『どん底』や『サロメ』の演出で新傾向を示した。1905年にブラームからドイツ座を引き継ぎ、回り舞台を駆使したスペクタクル的な『真夏の夜の夢』で不動の地位を獲得した。また、ドイツ座に併設したカンマーシュピーレ(小劇場)では、ウェーデキントやストリンドベリの心理的な近代劇を上演した。舞台は観客に現実とは別のイリュージョンを与えるべきだと考え、抽象的・象徴的な舞台をつくりだし、すべての劇形式、劇空間を貪婪(どんらん)に追求した。サーカスを使って『オイディプス王』を上演したり、教会で中世劇や大規模な黙劇『奇跡』などを試み、欧米各地に巡業して成功を収めた。また『ばらの騎士』以来多くのオペラをも演出、1920年の野外劇『イェーダーマン』に始まるザルツブルク音楽祭を実現させた。第一次世界大戦中すでに表現主義演劇に着目し、ゾルゲの『乞食(こじき)』やゲーリングの『海戦』をいち早く上演している。戦後はピランデッロを発見したり、バーナード・ショー作品の新演出を行ったが、ドイツ座25周年の祝賀の際に「俳優に告ぐ」という演説を残し、ナチス前夜にベルリンを去り、さらにアメリカ亡命を余儀なくされた。アメリカでは映画の仕事にも手を染めたが困難が多く、晩年は不遇で、43年10月31日ニューヨークに没した。理論的著作は少ないが、克明な演出台本が残されている。
[岩淵達治]
ドイツの演出家。オーストリアのバーデン生れ。俳優としてO.ブラームに発見され,1894年からベルリンのドイツ座に登場したが,やがてブラーム的な自然主義を離れて1902年に独立。象徴的,新ロマン主義的な新しい傾向を示す作品《どん底》や《サロメ》の上演に成功して,05年にはブラームに代わってドイツ座の監督となり,回り舞台を駆使した《真夏の夜の夢》で演出家としての評価を決定づけた。〈劇場の魔術師〉とよばれた彼は,感覚的でスペクタクル的な演出によって,当時の禁欲的な自然主義にあきた観客をイリュージョン的な雰囲気に巻き込んだが,一方では演劇に〈真の演劇性〉を回復することを目ざし,新しい演劇空間の発見に努めた。06年に彼がドイツ座に併設した室内劇場(カンマーシュピール)は,いわゆる小劇場運動の嚆矢(こうし)であったし,また,観客と舞台の交流をはかるために狭い額縁舞台の枠をとりはずして,サーカス小屋,寺院,野外などでの上演も試みた。また,黙劇,オペラ,映画などにも手を染め,A.ストリンドベリ,F.ウェーデキント,表現主義の初期作品などの舞台化にも成功した。一時は私立劇場の側からベルリンの演劇界に君臨し,外国でも数多く客演した。
第1次大戦後も5000人劇場を開場し,H.vonホフマンスタールと協力して〈ザルツブルク祝祭劇場〉を創始した。戦後全盛をきわめた表現主義演劇の抽象的,政治的な傾向には批判的で,一時はウィーンのヨーゼフシュタット劇場に移り,ここで俳優を中心とする対話劇の伝統を守ろうとした。のち,ふたたびベルリンにも戻って,二都を活動の場としたが,時流からみるとやや保守的な立場におしやられた。1933年にナチスが政権に就くと,ユダヤ人の彼はドイツを離れざるをえなくなり,ドイツ・オーストリア合併の時期までウィーンで活動を続け,38年にアメリカに亡命した。映画《真夏の夜の夢》を監督した以外はアメリカでは十分な活動の場をもつことができず,不遇のうちに世を去った。
執筆者:岩淵 達治
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…また,スイスの舞台装置家アッピアAdolphe Appiaは,照明と彫塑的な装置による俳優活用の演出を主張した。 20世紀に入るとドイツのM.ラインハルトは豊かな想像力と構成力によって絢爛,雄大な演出力を示したが,すぐれた俳優指導者でもあった。ドイツではさらに叙事演劇の先駆者E.ピスカートルが政治的直接行動をめざすプロレタリア劇場を創設(1920)したが,彼の協力者であるB.ブレヒトによって,ひきつづき叙事演劇による異化効果が探究された。…
…ウィーンでは1901年にザルテンFelix Salten(1869‐1945)によって〈ユング・ウィーナー・テアター・ツーム・リーベン・アウグスティン〉が作られてから,独自の伝統ができた。ベルリンには同じ年にウォルツォーゲンErnst von Wolzogen(1885‐1934)が〈ユーバーブレットル〉を,M.ラインハルトが〈シャル・ウント・ラウフSchall und Rauch〉を作り,ミュンヘンには〈11人の死刑執行人〉ができて,ニューモードとして一時流行したが長続きしなかった。ただドイツの大道演歌Bänkelsangの伝統を活性化したウェーデキントは,ドイツ的キャバレー(カバレットKabarett)の源流をつくりだした。…
…そのような身についた感情の欠如と無表情が,のちに映画監督ジョゼフ・フォン・スタンバーグの目をとらえることになる。はじめマックス・ラインハルトの演劇学校で学び,ドイツの雑誌でグレタ・ガルボと比較される人気女優になっていた1929年,スタンバーグに認められて《嘆きの天使》(1930)のローラ・ローラの役に抜擢(ばつてき)され,〈脚線美〉と〈退廃的な美貌〉で全世界の話題をさらった。パラマウントと契約してアメリカへ渡り,MGMのガルボのライバルとして売り出され,《モロッコ》(1930),《間諜X27》(1931),《上海特急》《ブロンド・ビーナス》(ともに1932),《恋のページェント》(1934),《西班牙(スペイン)狂想曲》(1935)と6本のスタンバーグ監督作品に出演した。…
…94年にはO.ブラームの経営に移り,その監督時代にはイプセン,ハウプトマンなど現代劇を演目の中心にすえた。1905年M.ラインハルトが監督になると,私立劇場ながらベルリンの演劇の中心となり,多くの名優をそろえ,シェークスピアから現代劇までの幅広い演目を誇った。近代の小劇場運動でも先駆的な役割を果たしている。…
…〈ナチス映画〉を代表するドイツの映画監督,女優。ベルリンに生まれ,美術を学んだのちバレリーナとしてマックス・ラインハルトの指導をうけ,アーノルト・ファンク監督に認められて山岳映画(《聖山》1925,《死の銀嶺》1929,《白銀の乱舞》1931,等々)に主演,ハンガリー生れの映画脚本家・理論家ベラ・バラージュの協力をえて,イタリアのドロミティ地方の山岳伝説を題材にした《青の光》(1932)を監督,主演する。ヒトラーに信頼され,1933年にニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録映画《信念の勝利》,つづいて34年党大会の《意志の勝利》,36年のベルリン・オリンピック映画《オリンピア》(《民族の祭典》と《美の祭典》の二部作。…
※「ラインハルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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