ロシア最初の公。在位?-879年。ノルマン(ワリャーギ)出身。ロシアの《原初年代記》(別名《過ぎし年月の物語》)862年の項によれば,ロシア北部のイリメニ湖畔居住のスラブ族であるスロベン族(ノブゴロド・スラブ),ボルガ川上流のメリャ族やクリビチ族が,それまで彼らに貢納を課していたワリャーギを追い払い,〈海のかなた〉なるワリャーギのもとへ使者を遣わして統治者を招いた。〈国は広くて豊かではあるが,秩序がない。願わくばわれらの地に来り,公として治めたまえ〉との求めに応じて3人の兄弟が自分の氏族とともに選びだされ,多くの従士団を率いて到来した。彼らは〈海のかなたのルーシ〉なるワリャーギとよばれた。長兄リューリクはノブゴロド地方に国を建てて君臨し(862),次兄シネウスSineusはベロオーゼロに,末弟トルボールTruvorはイズボルスクに居を定めた。ノブゴロド地方では,たび重なる原住民の抵抗を排除しつつ覇権を確立したが,リューリクの死後,その子イーゴリの後見を託された軍司令官オレーグが882年,かつてキー,シチェク,ホリフなる3人の兄弟が築いたという町キエフを占拠した。政治の中心は南のドニエプル川中流域に移り,北はノブゴロド,南は〈ルーシの町の母〉なるキエフ,つまり〈ワリャーギからギリシアへの道〉という通商路上の二つの要衝をおさえ,古代ロシア国家(キエフ・ロシア)として発展した。これが16世紀末までつづくリューリク朝であるという。
こうした〈ワリャーギ招致〉の伝説にもとづくロシア国家起源の主張が〈ノルマン説〉で,長い間,歴史家や文献学者,言語学者そして考古学者の間で激しい論議の対象となってきた問題であった。争点はこの伝説の信憑(しんぴよう)性をめぐってである。この年代記自体が12世紀初めに修道士などの教会聖職者により編集されたものであり,その記述にはリューリク朝の支配を正当づけようとの目的でキリスト教的歴史観に貫かれたきわめて宗教的・政治的な作為性がうかがわれるという。リューリクについての正しい人物像の把握こそ古代ロシア史解明の鍵ともいえる。
執筆者:清水 睦夫
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ロシアのリューリク王朝の祖。ロシア最古の年代記の伝えるところによると、内紛に悩むロシア(ルーシ)諸族は「海の彼方(かなた)のワリャーギ(ノルマン人)」の下に使節を派遣し、彼らを統治する公を求めた。この招請に応じてロシアへきたのがリューリク、シネウス、トルボルの三兄弟であった(862ころ)。そのうち最後まで生き残ったリューリクが全権力を握ったという。年代記の以上の記述から後代の人々は、古代ロシア国家がノルマン人のリューリクによって建てられたと考えた。今日この説には反対が多く、リューリクの存在を否定する説、否定しないまでも、彼を征服者とする説、あるいはロシア国家は東スラブ人社会の長期の内在的発展の結果成立したとする説など多くの説がある。リューリクの死後、その子イーゴリを擁したオレーグがキエフ(キーウ)を占領し(882)、ここにリューリク朝の基礎が築かれた。以後16世紀末に至るロシア諸公位はすべてリューリクの子孫が占めることになった。
[栗生沢猛夫]
『国本哲男著『ロシア国家の起源』(1976・ミネルヴァ書房)』
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…黒海~ドニエプル川~ボルホフ川~バルト海あるいはバイキングの国への水上ルートは,シルクロードの太い支線であり,この道筋をたどってビザンティン帝国や東方の文物が運びこまれた。また9世紀後半にノブゴロドに建国したとされるリューリクは息子や家臣をこのルート伝いに南下させてキエフに公国をつくらせた。【渡辺 一夫】。…
※「リューリク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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