旧ベルギー領コンゴ(現、コンゴ民主共和国)出身の政治家。7月2日カサイ州に生まれる。ミッションスクールで教育を受けたのち、スタンリービル(現、キサンガニ)で郵便局員となり、労働運動を通じて頭角を現した。その後政界に転じて民族主義運動の有力な指導者となり、1958年にはコンゴ国民運動(MNC:Mouvement National Congolais)の創設に参画。同年末にガーナで開かれた第1回全アフリカ人民会議に参加し、エンクルマらの影響を受けて、政治的にいっそう先鋭化した。1959年にはコンゴの即時独立を主張し、扇動罪で一時投獄されたが、1960年1月、独立のための円卓会議にコンゴ代表として参加し、同年5月の選挙ではMNCを勝利に導いて、6月のコンゴ共和国(のちザイール共和国。現、コンゴ民主共和国)の独立とともに初代首相に就任した。しかし、直後に起こったコンゴ動乱の渦中で、カタンガ州の分離独立問題への対応をめぐって大統領カサブブと激しく対立し、9月に首相を解任された。その後国連軍の保護下にあったが、レオポルドビル(現、キンシャサ)を脱出してルムンバ派の本拠地スタンリービルへ向かう途中、12月にカサイ州で政府軍に逮捕された。さらに1961年1月に身柄をカタンガ州へ移送されて殺害されたが、真相は明らかでない。
[小田英郎]
アフリカのコンゴ(現,コンゴ民主共和国)の政治家。カサイ州の出身で,ミッション・スクールで教育を受けたのち,スタンリービル(現,キサンガニ)で郵便局員となり,労働運動指導者を経て民族主義運動の有力な指導者となった。57年に主都レオポルドビル(現,キンシャサ)に移り,58年にはコンゴ民族運動(MNC)の創設に重要な役割を果たすとともに,現ガーナのアクラで開かれた第1回全アフリカ人民会議に出席し,エンクルマらの政治姿勢に強く刺激されていっそう先鋭化した。その結果59年末には,コンゴの即時解放を叫び暴動を誘発したとして,扇動罪で一時投獄された。60年初めの〈独立のための円卓会議〉にコンゴ代表の一員として出席し,さらに同年5月の選挙でMNCを勝利に導いて,6月の独立とともに初代首相に就任した。しかし独立直後に起こったコンゴ動乱の渦中にあって,中央集権主義者の彼は地方分権主義に傾斜したカサブブ大統領と激しく対立し,9月には互いに相手の解任を宣言するにいたった。この対立状況のなかで彼は一時国連軍の保護下にあったが,レオポルドビルを脱出して本拠地スタンリービルへ向かう途中,12月にカサイ州で政府軍に逮捕され,身柄をカタンガ州に送られて61年2月に殺害された。主著に《コンゴ,未来の国--汝は脅威なりや》(1961)がある。
執筆者:小田 英郎
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1925~61
コンゴ民主共和国独立時の首相(在任1960)。民族主義と反植民地主義を強く主張した。コンゴ動乱のなかで,敵対勢力に捕えられて殺害された。暗殺にはアメリカやベルギーが関与したとされ,世界各地で激しい抗議行動が起こった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…第2次世界大戦が終わると,アフリカ全域にナショナリズム運動が高まるが,ベルギー領コンゴにその波動が到達したのは50年代末期であった。その契機は,コンゴ国民運動(MNC)の指導者ルムンバが58年12月に現ガーナのアクラで開かれた全アフリカ人民会議に出席し,他地域のナショナリストたちから大きな刺激を受けて帰国したことである。ルムンバはコンゴの即時独立を目ざしてただちに大衆運動の組織化に着手し,ほかにもこれに同調する動きが生じたため,ベルギーもコンゴの独立を認める方向へ向かわざるをえなくなった。…
※「ルムンバ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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