日本大百科全書(ニッポニカ) 「レオポルト」の意味・わかりやすい解説
レオポルト(1世)(ベルギー国王)
れおぽると
Leopold Ⅰ
(1790―1865)
ベルギーの初代国王(在位1831~65)。ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの末子。イギリス女王ビクトリアの叔父にあたる。若くして軍務に服し、ナポレオン1世の宮廷にも仕えた。ナポレオン戦争中はロシア軍の騎兵隊士官として活躍した。1816年、イギリス王女シャルロットCharlotteと結婚。翌年の妃の没後も31年までイギリスに在住し、その間各国の諸制度を視察した。30年ギリシア王への即位を辞退。翌年、独立したばかりのベルギー王となった。即位の直後、オランダの侵略をフランス軍の援助により撃退した。32年にフランス王ルイ・フィリップの長女ルイーズ・マリー・ドルレアンLouise Marie d'Orleansと再婚。39年、対オランダ問題を解決し、さらにベルギーの中立維持に努力した。彼は立憲君主制を確立したが、自身は絶対君主的性格を示した。最初の大陸鉄道の敷設など産業の発展に寄与し、人望が厚かった。
[黒沢文貴]
レオポルト(3世)
れおぽると
Leopold Ⅲ
(1901―1983)
ベルギー王(在位1934~51)。アルベール1世の長子。イギリスのイートン・カレッジに学び、歴史家ピレンヌらの指導を受ける。1935年成立のゼーラント国民連合政権の助力により、平価切下げを断行、失業問題などを解決した。ベルギーの中立政策を推進して、世界平和を訴える。39年軍の統帥権を掌握。第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツ軍の侵入にあたっては亡命政権への参加を拒み、無条件降伏をした。レーケン宮に軟禁、44年家族とともにドイツに連行された。戦後、大戦中の王の行動が非難され、王弟が摂政(せっしょう)となった。50年に王のベルギー帰還が国民投票で実現したが、翌51年息子のボードゥアン1世Baudouin Ⅰに王位を譲った。
[黒沢文貴]
レオポルト(1世)(神聖ローマ皇帝)
れおぽると
Leopold Ⅰ
(1640―1705)
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位1658~1705)。バロックの君主として信仰厚く、音楽・芸術を愛好し、平和を求めたが、西方からのフランスのルイ14世の侵略戦争に対し、南西ドイツ諸侯の犠牲においてこれを回避した。東方では、フランスと結んだトルコの北上に直面し、1683年ウィーンを攻囲されたが、彼はドイツ諸侯やポーランド王に助けられて反撃に転じた。サボイア公プリンツ・オイゲンPrinz Eugen von Savoyenの活躍により、99年カルロウィッツ条約となり、全ハンガリーを回復した。1701年に始まったスペイン継承戦争でも、イギリス、オランダと結んで、次子カールへのスペイン王位継承を図ったが、戦争のなかばで没した。
[進藤牧郎]
レオポルト(2世)
れおぽると
Leopold Ⅱ
(1835―1909)
ベルギー王(在位1865~1909)。レオポルト1世の第2子。植民地問題でオーグスト・ランベルモン、軍事問題でカピテン・ブリアモンなど有能な人材を重用し、植民地の獲得と国防力の充実に努めた。スタンリーのコンゴ探検を援助、1885年のベルリン会議で、自らを王とするコンゴ自由国の建設を認めさせ、ゴムや象牙(ぞうげ)の輸出で個人的にも巨額の富を得た。しかしこれには内外からの非難が集中し、コンゴはベルギーの植民地となった(1908)。治世中、普通選挙法(1893)を制定。壮大な都市計画をもっていたが、国民皆兵法への署名を最後に死去した。
[黒沢文貴]