イタリア生まれのイギリスの建築家。フィレンツェに生まれる。4歳のときにイギリスに移住し、ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)で建築を学ぶ。後にアメリカのエール大学に移り、ピーター・シェマイエフPeter Chermayeff(1936― )のもとで都市におけるハウジング計画論を研究。その後ロンドンに戻り、独立。初期のころには伝統的な素材を利用した住宅等を設計する。1963年、ノーマン・フォスターらとともにチーム4を設立。フォスターとの協同作としてリライアンス・コントロール工場(1967、イギリス、ウィルトシャー県)がある。この作品は鉄骨ブレース構造(鉄骨のフレームを、斜めの部材によって補強した構造)の平屋建てで、軽量壁パネルの使用によって空間の可変性や軽量性、フレキシビリティなどが追求された。こうした方法論の試行を、ロジャーズはウィンブルドンの自邸(1969)において行っている。このころから、イギリスのケンブリッジ大学やAAスクール、アメリカのエール大学、コーネル大学、プリンストン大学など、多くの学校で教鞭(きょうべん)をとるようになる。
1970年にはレンゾ・ピアノと共同でパリのポンピドー・センターのコンペティションに参加し、一等入選。1977年にこれを完成させる。パリの伝統的な街並みに建つポンピドー・センターは、設備の配管や構造、チューブ上のエスカレーター等がむき出しのままで外部に露出し、それらが赤や青や緑の原色で着色されて巨大な工場のような外観を呈している。6層からなるポンピドー・センターは、構造や設備を外部へと持ち出すことで、内部空間を完全なフリースペースとしており、機能の変化に対応する可変的な平面を実現させている。この過剰なメカニカル・デザインは、その後のポスト・モダニズムの流れに大きな影響を与えることになった。
ロジャーズは、自らはほとんど図面やスケッチを描かず、人間をオーガナイズすることによって都市・建築のプロジェクトを遂行していく組織型の建築家である。ロジャーズの建築的な理念は標準化された部材の選択と組合せによって、軽量で可変的な建築をつくるシステムそのものを社会の要請に同調させること、すなわち、科学技術とデザインというプロセスをつき合わせようとするものであり、その点でチャールズ・イームズの方法論にも通じる。
1977年、リチャード・ロジャーズ・パートナーシップを設立。このころの作品としては、インモス・マイクロ・プロセッサー工場(1982、イギリス、ウェールズ南東部ニューポート)、PAテクノロジー・プリンストン社屋・研究所(1986、アメリカ、ニュー・ジャージー州)などがある。これらはいずれも、鉄骨による橋梁(きょうりょう)のような吊(つ)り構造の建築で、支柱からトラス梁(ばり)(三角形状に梁をつなぎ合わせた構造体)を吊り、それによってフレキシブルな無柱空間をつくりだしている。さらに上部には設備の配管を露出させ、ポンピドー・センターの手法を踏襲したデザインとなっている。
ロジャーズの、こうした表現の頂点となる作品が、ロイズ・オブ・ロンドン(1986)である。ロジャーズは1980年代におけるポスト・モダニズムの潮流において、ハイテク・デザインの代表と目された建築家であったが、そうしたデザインのシンボルをなしたのがこのロイズ・オブ・ロンドンだった。ロンドン市街地に建つこの高層ビルにおいても、むき出しになった外部階段や設備の配管がメタリックな仕上げによって荒々しく表現され、それらがユニット化されて幾層も積み上げられている。また、クレーンやボルトを思わせるメカニカルな形態がデザイン要素として各所に引用され、構造と設備と外皮が意図的に分解されて、機械としての建築を過剰に表象している。
1986年には、ロンドンのロイヤル・アカデミーでの「ありうべきロンドン」London As It Could Be展に出品し、ロンドンの市街地を大規模に改変する再開発計画案を発表。1990年代に入り、EUにおけるサステイナブル・デザイン(持続可能なデザイン)の隆盛を背景に、地球環境を視野に入れた都市・建築のデザインを追求するようになる。その後、都市機能を1か所へと集約させることによって環境への負荷を低減させようとするコンパクト・シティ論を積極的に展開し、著作や講演を通した、一般市民向けの啓蒙(けいもう)活動も積極的に行った。また、そうしたコンパクト・シティ論の具体化として、上海マスタープラン(1997)のプロジェクト等を発表した。
[南 泰裕]
『リチャード・ロジャース、フィリップ・グムチジャン著、手塚貴晴他訳『都市――この小さな惑星の』(2002・鹿島出版会)』
アメリカのカントリー歌手。生年は1937年説もある。テキサス州ヒューストン生まれ。少年のころ教会の合唱団で歌う。高校時代にロカビリー・バンドのスカラーズを結成して初録音。1958年に単独で録音。翌1959年ヒューストン大学に入学して商業美術を学ぶ。ジャズのボビー・ドイル・トリオのベース奏者を経て、1966年フォーク・グループのニュー・クリスティ・ミンストレルズThe New Christy Minstrelsに歌手・ベース奏者として参加。1967年にマイク・セトルMike Settle(1941― )らとカントリー・ロックのグループ、ファースト・エディションThe First Editionを結成する。『ジャスト・ドロップト・イン』Just Dropped In(1968)、『町へ行かないで』Ruby, Don't Take Your Love to Town(1969)などのヒットを出したが1975年に解散、ソロ活動に入った。1977年のヒット『ルシール』Lucilleでグラミー賞の最優秀カントリー男性歌唱賞、1978年の『ギャンブラー』The Gamblerでふたたび同賞、1987年のロニー・ミルサップRonnie Milsap(1944― )とのデュオ曲『メイク・ノー・ミステイク』Make No Mistake, She's Mineでグラミー賞最優秀カントリー・デュエット賞を受賞した。1979年度カントリー音楽協会賞の男性歌手賞を受賞。1991年ロースト・チキンのレストラン・チェーン「ケニー・ロジャーズ・ロースターズ」を開設した。1998年には自身のレコード会社「ドリームキャッチャー」を設立した。
[青木 啓]
アメリカの心理学者。イリノイ州オーク・パークに生まれる。ウィスコンシン大学で農学、史学専攻。その後2年間ユニオン神学校で過ごし、さらにコロンビア大学教育大学大学院で教育および臨床心理学を学ぶ。1931年学位取得。ニューヨーク州ロチェスター児童虐待防止協会の役職を務めるかたわら多くの臨床経験をもつ。1945年オハイオ州立大学臨床心理学教授となり、同年カウンセリングセンター創設のためシカゴ大学へ移籍。1957年ウィスコンシン大学名誉教授となる。彼の業績は、来談者中心療法として知られ、さらに自己の構造・機能に関する研究を通して自己実現の原理を構築した。代表的著作には、『カウンセリングと心理療法』Counseling and Psychotherapy(1942)、『来談者中心療法』Client-centered therapy(1951)、『エンカウンター・グループ』Carl Rogers on encounter groups(1970)などがある。
[木村 裕]
『畠瀬稔他訳『エンカウンター・グループ――人間信頼の原点を求めて』(1973・ダイヤモンド社/1982/新版・2007・創元社)』
アメリカのミュージカル作曲家。ニューヨーク生まれ。コロンビア大学在学中に作詞家ロレンツ・ハートと知り合い、1919年から42年までコンビとなって『ジャンボ』『パル・ジョーイ』ほかの名作を生む。43年からはオスカー・ハマースタイン2世とのコンビで『オクラホマ!』『南太平洋』『王様と私』『サウンド・オブ・ミュージック』などの傑作を作曲し、60年にオスカーが没してからは自ら作詞もした『ノー・ストリングス』ほかを発表。作品は多彩で美しい。
[青木 啓]
イギリスの経済学者。ロンドン大学とオックスフォード大学で学び、イングランド教会の聖職者となったが、のちR・コブデンらとの交友で経済学に転じた。ロンドン大学、オックスフォード大学教授を経て、1880~86年下院議員となり、のちまたオックスフォード大学教授となる。C・F・バスティアやコブデンの影響のもとに自由放任論を唱えたが、後年は労働組合を擁護した。主著に『イングランド農業・価格史』全八巻(1866~93)や『イングランド銀行初期九年史』(1887)などの史的研究がある。キャナン版が出るまでは、『国富論』の編者としても知られた。自由主義的経済学入門書の著者としても著名で、明治前半期の日本でも高橋達郎訳『泰西経済新論』や小山雄訳『社会経済要略』などが出版されている。
[杉山忠平]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
多くの名作ミュージカルを書いたアメリカの作曲家。音楽好きの両親の影響を受け,14歳のとき初めて歌を作り,コロンビア大学時代に知り合った作詞家ローレンツ・ハートLorenz Hart(1895-1943)と,1925年の《ギャリック・ゲイエティーズ》を手始めに,次々にミュージカルを合作した。その中には《マイ・ファニー・バレンタインMy Funny Valentine》などの名歌が含まれていた。43年には作詞家オスカー・ハマースタインと新コンビを組み,《オクラホマ!Oklahoma !》(1943),《南太平洋South Pacific》(1949),《サウンド・オブ・ミュージックThe Sound of Music》(1959)など不朽の名作を書いた。
執筆者:中村 とうよう
イギリスの経済史学者,政治家。穀物法反対運動で知られるR.コブデンとの交流を通じて農業問題に関心を抱く。1880-86年自由党庶民院議員。1866年以来,大著《イギリス農業・物価史》を刊行,没後の1902年に第7巻が出て完成した。いまだに物価史研究の基本文献となっているこの著作は,農業史そのものや農民の生活史の研究としても,画期的な作品であった。
執筆者:川北 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…これはミシシッピ川を往来するショーボートをおもな舞台にして,一座の座長の娘と流れ者の賭博師とのロマンスを描いたものであるが,同時に,人種差別のせいで不幸になる一座の花形女優の物語をも扱い,黒人がおおぜい登場する点,また,個々のナンバーがプロットと緊密につながっている点で,画期的な作品だった。カーンにやや遅れて現れ,第2次大戦前の時期に,あるいは戦後まで,活躍したおもな作曲者は,I.バーリン,G.ガーシュウィン,K.ワイル,C.ポーター,R.ロジャーズなどである。バーリンは詞も書き,最初はおもにレビューの仕事をして無数のヒット・ソングを生んだが,射撃が巧みな娘を主人公にした野趣と生気の充満する《アニーよ銃をとれ》(1946)によって,本格的なミュージカルでも優れた業績を残した。…
※「ロジャーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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