18世紀半ばアラビア半島に起こったイスラム改革運動。復古主義的立場でイスラムの純化を目ざす近代の改革運動として初発的なもの。自らはムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。スンナ派に属し,法学上ハンバル派の立場をとる。創始者はナジュド出身のムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブ。彼はメディナおよびイラク,イランの各地に遊学し,一時はスーフィーとして知られたが,転向して14世紀のイブン・タイミーヤの思想的後継者となって故郷に帰った。すなわち,コーランと預言者のスンナに立ち戻ることを厳格に主張し,哲学思想や神秘主義を初期ムスリムの正しいイスラムに対するビドア(革新),つまり歪曲・逸脱だとして退けた。ことに聖者や墓の崇拝を最も厳しく排撃した。タウヒード(神の唯一性)とカダル(神の予定)とを強調し,シルク(多神教)につながる可能性ありと認めるいっさいのものを否定しようとした。故郷で迫害された彼は,ナジュドのダルイーヤに拠るムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.Sa`ūd(?-1765)の勢力拡大運動と結ぶこととなり,その結果,この運動はサウード家の政治的消長と軌を一にしつつ,アラビア半島に展開した。サウード家の支配はワッハーブ王国と呼ばれることもある。それは,19世紀初め,イラクのカルバラーを急襲し,メッカ,メディナを占領したが,オスマン帝国の命を受けたムハンマド・アリーの討伐軍によって滅ぼされた。その後の変転を経て,20世紀初め,アブド・アルアジーズ・ブン・サウードがリヤードを奪回し,やがてサウジアラビア王国を建設するとともに,この立場は半島主要部分におけるイスラムの主流となった。この運動はその出発において部族的・宗派的枠組みから自由でなかったとはいえ,諸地域におけるイスラム改革運動(とくにサラフィーヤ)の諸潮流を触発させた。
執筆者:板垣 雄三
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外部からサウジアラビアの宗教を表す用語。サウジアラビアではムワッヒドゥーン(唯一神信仰者)の語を用いる(同国国教は公式にはハンバリー派イスラーム)。イブン・タイミーヤなどの影響を受けた18世紀のムハンマド・ブン・アブドゥルワッハーブの宗教純化運動を起源とし,シャリーアの厳格な適用を特徴とする。20世紀初頭のアラビア半島における半農半軍の信仰共同体,イフワーン運動のイデオロギーとなるとともに,現代のイスラーム復興運動にも大きな影響を与えている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…そしてまた,そこには,批判し抵抗する主体,闘う共同体の意識を,国土や根拠地に根ざして発酵させようとする運動としての強烈なジハードの志向もまたみられた。 第1に挙げなければならないのは,アラビア半島に起こったワッハーブ派の運動である。そこで発揮されたイスラムの復古的純化の思想と共通のものは,インドのシャー・ワリー・ウッラーの立場や,またその影響下で北インドにジハードを展開しようとしたサイイド・アフマド・バレールビーのムジャーヒディーン運動,あるいはベンガルで強力な展開を示したファラーイジー運動などにも,これを見いだすことができる。…
…シリアの各地はそれに対して自衛するためにも経済力・軍事力を涵養しなければならず,そのことがまた割拠を強めた。 周辺からの圧力の代表的なものに,アラビヤ半島に興ったワッハーブ派が,19世紀初頭にメソポタミアを越えてシリアへ侵入してきたという例がある。巡礼行路の安全を確保するのはオスマン中央政府の威信にかかわる問題であり,エジプトのマムルーク勢力に討伐を命ずると,恭順を装いながら好機を狙っていた彼らマムルークは勇躍する。…
※「ワッハーブ派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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