一ノ谷の戦い(読み)イチノタニノタタカイ

デジタル大辞泉 「一ノ谷の戦い」の意味・読み・例文・類語

いちのたに‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【一ノ谷の戦い】

寿永3年(1184)源義経みなもとのよしつね範頼のりよりの軍が、一ノ谷に進出して平氏の軍を破った戦い

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一ノ谷の戦い」の意味・わかりやすい解説

一ノ谷の戦い
いちのたにのたたかい

1184年(元暦1)2月7日、摂津国一ノ谷(神戸市須磨(すま)区)で起こった源平合戦。前年7月、安徳(あんとく)天皇を擁して西海に走った平氏一門は、源頼朝(よりとも)、義仲(よしなか)の確執に乗じて勢力挽回(ばんかい)、このころには旧都福原(ふくはら)に東進し、東(生田森(いくたのもり))、西(一ノ谷)に軍陣を構えて要害を固め、京都回復を目ざすに至った。頼朝は義仲を倒すやただちに平氏追討の院宣(いんぜん)を請い、弟範頼(のりより)に大手を、同義経(よしつね)に搦手(からめて)をつかせた。一ノ谷は背後に険しい山峰を連ねて入口が狭く、もっとも堅牢(けんろう)な陣地であった。戦闘は一時混戦状態になったが、結局、義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲により、平氏軍は四国屋島(やしま)に敗走した。この戦いで平氏一族の多くが討たれ、とくに熊谷直実(くまがいなおざね)に殺された平敦盛(あつもり)の話は有名。また清盛の息重衡(しげひら)も須磨で捕らえられた。

[杉橋隆夫]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一ノ谷の戦い」の意味・わかりやすい解説

一ノ谷の戦い
いちノたにのたたかい

寿永3 (1184) 年2月7日,摂津国一ノ谷で行われた源平合戦 (→治承の内乱 ) の一つ。源義仲の攻勢に西国に敗走した平氏軍は,京都を回復するため東上,摂津福原に陣取った。この地は北は山,南は海,東西は生田の森と一ノ谷とを城戸口とした要地であった。源頼朝の命で上京した源範頼,義経兄弟は義仲軍を破ったのち,後白河法皇の平氏追討の院宣を得て福原へ向った。範頼軍は生田の森へ進軍し,義経軍は精兵を従えて一ノ谷の背面に達した。7日早朝,法皇の休戦申入れの報を真に受けた平氏が油断したところをついて総攻撃をかけた。有名な義経らの鵯越 (ひよどりごえ) の逆落し急襲で源氏軍が大勝し,平氏は海上に敗走した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「一ノ谷の戦い」の解説

一の谷の戦い
いちのたにのたたかい

1184(寿永3・元暦元)年,摂津一の谷(現神戸市須磨区)で行われた源平合戦
1183年源義仲に追われた平氏が勢力を回復して福原に拠り,京都をめざしたので,源範頼 (のりより) ・義経が攻撃して平氏を完敗させた。義経の奇襲は「鵯越 (ひよどりごえ) の逆落し」として知られる。

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