一日市村(読み)ひといちむら

日本歴史地名大系 「一日市村」の解説

一日市村
ひといちむら

[現在地名]八郎潟町一日市

八郎潟の東岸に位置し、南を馬場目ばばめ川が西流、川を挟んで大川おおかわ(現五城目町)と相対し、北は夜叉袋やしやふくろ村、東は川崎かわさき村と接する。村内東部の小池こいけに貞和二年(一三四六)、同四年の板碑がある。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「参百拾壱石四斗壱升八合 大川村 一日市村」とあり「か満のま村」「おしきり村」の名もみえる。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「弐百卅六石七斗三升三合 湖東通 蒲沼村」「五拾石六斗四升弐合 同 北押切村」「八拾壱石八斗六合 同 一市村」とある。


一日市村
ひといちむら

[現在地名]香住町一日市

若松わかまつ村の北に位置する。西は香住湾に面し、東はさかえ村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」では若松村と併せて「若松一日市村」とみえ、また「志のへ村」は地内の東部にあたるか。近世の領主の変遷は香住村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では若松村高三四八石余のうちに含まれて高付されていたと考えられる。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高一七四石余。出石封内明細帳によると拝領高一七四石八斗余、うち三斗余は高不足で免状高は一七四石四斗余。


一日市村
ひといちむら

[現在地名]広神村一日市

破間あぶるま川の支流羽根はね川の下流左岸にある。南は七日市なのかいち(現湯之谷村)、北は羽根川を挟んで新保しんぼ村。板木いたぎ村・佐梨さなし(現小出町)、当村・今泉いまいずみ村を経て六十里越ろくじゆうりごえにつながる道は、佐梨のつばめ堂の参詣道でもあることから燕堂つばめどう道とも称された。正保国絵図に村名がみえ、高二一三石余。天和三年郷帳では高一七六石一斗余、ほかに一日市村新田五九石三斗余。慶応四年(一八六八)の村明細帳(一日市区有文書)では田一一町七反余・畑七町四反余。


一日市村
ひといちむら

[現在地名]新潟市一日市

石動いすろぎ新田の北東、阿賀野川左岸に立地し、西は海老えび村、南はなか興野、北は津島屋つしまや村。開発は文明年間(一四六九―八七)と伝え、一の日に市が立ったという。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に「横越嶋村木津相見小杉一市村共」とあり、一九六石四斗六升と記される。同一七年の御蔵納同払方帳(同資料)には「一日市村」とあり、七〇石九斗九升六合。正保国絵図では高一七〇石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では高二七四石四斗余。同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると五一軒・四三〇人。


一日市村
していちむら

[現在地名]福光町一日市

田中たなか村の東、大井おおい川西岸にある。福光村から井波いなみ村へ通じる脇道(井波道)が通り、福光村からの距離は一里(越中道記)。村名は中世の日限市に由来するとされ、仏土ぶつど寺の門前市として毎月一日に大市が立てられたことにちなむともいう(福光町史)。「していち」の読み方は、「棄値で」品物を売ったことから「すていち」とよばれ「していち」に変わったとも(越中志徴)、別に一日・一一日・二一日の三斎市が開かれたことから一日市ひといちとよばれ、「していち」になったとする説もある。現在も市場守護の地蔵堂が残る。元和五年(一六一九)の家高新帳に一日市とみえ、田中久三郎組に属し、役家数四。


一日市村
ひといちむら

[現在地名]岡山市一日市

西祖せいそ村の東、妙見みようけん山の南東にあり、南流する吉井川西岸に集落がある。北接する吉井よしい村境を通る山陽道沿いに町並を形成、東の片上かたかみ宿(現備前市)、西の藤井ふじい宿の間の宿で、本陣も置かれた(吉備温故秘録)。同道の吉井川渡河点にあたり、渡船場があった。中世、当地の河原で一の日に市が立ったことから村名となったと伝える。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)福岡ふくおか庄に村名があり、寛永備前国絵図では高三九〇石余。


一日市村
ひといちむら

[現在地名]豊岡市一日市

円山まるやま川西岸に位置し、川を挟んで野上のじよう村・もり村に対する。伝承によると、天正元年(一五七三)の洪水のため北に接するなだ千軒が壊滅し、住民が移り住んだという。江戸時代の領主の変遷は小尾崎こおざき村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高八八五石余(誤記か)


一日市村
ひといちむら

[現在地名]粕川村一日市

粕川の左岸にある。寛文郷帳では田方九石余・畑方五二石余、前橋藩領。寛政二年(一七九〇)には奥州泉藩領(同年「条目写」恩田文書)。明治一〇年(一八七七)頃の戸数一六、ほかに社一、人数七一、牡馬一・牝馬一一。生業は男女とも農・桑業。田二町九反余・畑八町九反余・宅地二町二反余・林五町八反余。鎮守は稲荷社(郡村誌)。現在稲荷社は上東田面かみひがしたなぼの神明宮に合併されている。薬師堂が東と西の二ヵ所にあり、西の薬師堂には室町初期と推定される赤城塔、保徳(宝徳)元年(一四四九)の銘のある宝篋印塔の台石、凝灰岩の石仏など石造仏が多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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