改訂新版 世界大百科事典 「一田両主制」の意味・わかりやすい解説
一田両主制 (いちでんりょうしゅせい)
Yī tián liǎng zhǔ zhì
1枚の田を2人の主人が所有することを意味する旧中国の小作慣行。20世紀半ばの中国革命まで,地主佃戸(でんこ)制と呼ばれる小作制度の発達した華中・華南に広く行われた。一田両主制下の小作田では,小作農(佃戸,佃農)の耕作権が,地主(田主,業主)の土地所有権からの規制をいっさい受けることなく,独立して売買・入質することの可能な物的権利として確立されていた。この場合,地主の土地所有権と小作農の耕作権は1対をなして,田底と田面(江蘇省),田骨と田皮(江西省),大苗(だいびよう)と小苗(福建省),糧業と質業(広東省)などさまざまの地方的名称で呼ばれたが,なかでも田面は耕作権を表す代表的名辞となっている。
辛亥革命以前の王朝国家の時代から,地主,自作農などの土地所有者は,たとえば明代では税糧,清代では地丁銭糧といわれる土地税を国家に納入する義務を負う一方,所有する土地を自由に処分することが法律上認められていた。小作農の耕作権は,長年のあいだ法律の明文で規定された権利ではなかったが,根強い慣習として地域社会の承認を得ていた。小作農の耕作権の萌芽は,地主による土地所有と佃戸による経営との分離を骨格とする小作制度自体の中にすでにはらまれていたが,売買・入質可能な物的権利としての耕作権の存在が,一定の地域的広がりをもった現象として文献資料の上に見られるようになるのは,ようやく16世紀以降である。このころから地主の中には都市に居住して定額小作料の徴収のみに関心を抱く寄生的な存在が目だってきた反面,小作農は土地以外の生産手段や住居を所有し,米や副業としての手工業製品をみずから市場に出して生計維持を図るなど,生産と生活の全面にわたって地主への依存を脱しつつあった。16世紀には,小作人交替の際,本来的には地主が従前の小作人に返還すべき小作保証金を,地主に代わって新しい小作人から支払うという風潮が生まれた地域で,一田両主制が形成されている。また,17世紀以降には,小作人の資本や労働の投下によって土地の改良,開墾,復興が進められた地域で一田両主制が盛んに行われるようになった。いずれの場合にも小作農の積極的な行動が目だつ。18世紀の華中・華南では作柄の変動にかかわりなく,きまった額の穀物または貨幣を地主に納める定額小作料の比重が8割にも達しており,生産者としての小作農の自立性の向上こそ耕作権確立,一田両主制の普及の基本的要因であったことをうかがわせる。
しかしながら,地主の意向を無視して小作農相互間に耕作権の売買・入質による授受が頻繁に行われることは,地主と小作農とのつながりをいっそう希薄にし,小作田に対する佃戸の権限を強め,佃戸による小作料不払い(抗租)の地盤を醸成し,ひいては地主による土地税の国家への納入を困難にした。このため,18世紀になると清朝の各省行政当局は法例・布告を通じて一田両主慣行を禁止するようになった。にもかかわらず,小作農の生産労働の中に根強い基盤をもつこの慣行は,絶えることなく20世紀まで維持され,1920年代末には永佃権の名によって耕作権が法的に認知された。中国革命期の土地改革では,田面などの耕作権が設定されている土地は,優先的にその保持者である農民に分配された。この事実は一田両主慣行において確立された耕作権が所有権に準ずる性質をもおびていたことを示している。なお,地主が,土地税納入を第三者に請け負わせ,これとひきかえに小作料徴収権を委譲するなど,さまざまの形で土地所有権の部分的分割を行う際には一田三主という事態も生まれていた。また,小作農が保持していた耕作権を第三者に売却あるいは入質し,旧来の地主とこの第三者とに二重の小作料を支払うという悲惨な状況も見られた。
執筆者:森 正夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報