抗租 (こうそ)
Kàng zū
11世紀後半から20世紀中葉の土地改革にかけての期間,中国の小作農に当たる佃戸(でんこ)(あるいは佃農)の行った,小作料の徴収をめぐる地主(田主(でんしゆ)あるいは業主)への抵抗運動。中国ではすでに漢代から形態の上で小作制度に近似した慣行はあったが,土地を所有する地主が佃戸と契約を交わして土地を貸し出し,佃戸が小作料を納入する制度(租佃制あるいは地主佃戸制)が華中・華南を中心に普及していくのは10世紀に入ってからであり,すでに唐代後半,8世紀半ばに先駆的な例のある抗租についての資料も,11世紀後半,北宋中期,長江(揚子江)下流南岸デルタの蘇州市,嘉興市方面での動きを伝えるものをはじめとしてしだいに増えてくる。12世紀後半,南宋初期には,同じ地域の湖州市方面で数十人の佃戸が約束を取り交わして地主に小作料を納めないため,地方官の厳しい処分を受けている。13世紀後半の南宋末には,蘇州市方面で,小作料を滞納した一人の佃戸を逮捕,監禁するために,地方官数十人を派遣するという事態が続き,これに対して農村では地域ぐるみの抵抗が行われた。欠租(けんそ),逋租(ほそ)などと呼ばれ,それ自体が消極的な抵抗である小作料の未納・滞納が,宋代においてどのような背景をもっていたかについては,湖州市方面に見られる積極的な納入拒否の場合ともども不明の点が多い。以後15世紀前半までは,この種の記録もほとんど見られなくなることからすると,佃戸の側の経営基盤がなお弱く,地主による糧食貸与の慣行に見られるように地主とのあいだに保護被保護関係がなお強く存在し,抵抗の持続性は乏しかったと考えられる。
しかしながら15世紀中葉,福建で起こった鄧茂七の反乱においては,佃戸がみずから付加小作料の廃止という明確な具体的要求をかかげ,集団の力で地主にその承認を迫り,16世紀以降は抗租が持続的に強化,拡大されていく。小作制のもっとも発達した江南で,佃戸の側の意識的な滞納が一つの地域に一般化しつつある現象として記録されるようになるのは16世紀の20年代からである。16世紀半ば以降,商品生産,貨幣経済がこれまでになく大きな量的発展をとげるころから,抗租はしだいに活発になってきた。地主が農村を離れて,県の役所が置かれた都市や新興の市場町である集鎮などへ移住し,寄生的な不在地主となる傾向が進み,他方,佃戸が副業として綿糸・綿布,絹糸・絹布などの手工業生産に従事し,これらの製品や穀物を市場に出すことによってみずからの力で家計や農業経営の調整を行う条件をもつようになると,両者の力関係には大きな変化が生じた。一方,大きな資本をもつ商人が,佃戸から生産物を買い入れるだけでなく,従来地主のみが担っていた高利の農村金融にも乗り出すと,佃戸は債務の返済のためたえず資金のやりくりに迫られ,本来の小作米もそれに充当されるようになった。これらが抗租が活発になった契機である。地主の土地所有権とは独立に,佃戸の意志で売買,入質,転譲できる耕作権の地域的普及を示す記事が資料に現れるのも16世紀であり,このことにも抗租を遂行する基盤の強化がうかがわれる。
17世紀,明末・清初には,福建沿海,福建・江西省境地区で抗租が大きな武装反乱となり,江南デルタでも抗租暴動がいくたびか起こった。18世紀には,江南デルタについて,抗租の慢性化が江蘇省の長官によって詠嘆をこめて皇帝に報告されているほか,浙江,福建,広東,湖南などでも抗租が地域の一般的現象として資料に記され,山東,河南など北方についても抗租に関する資料が残されている。殺傷事件に発展して中央政府の下に報告された零細な個別的衝突事件を含めれば,華中・華南を中心に,中国のすべての省で抗租が起こっている。これらの抗租は,(1)小作料そのものの軽減,増額や規定額以上の徴収反対,量器の是正,(2)節句のつけとどけをはじめとするさまざまな小作料以外の徴収など,付加負担の廃止,(3)礼金,小作保証金など小作契約時の納付金の改善,(4)耕作権の確立,などの多様な要求にもとづいて行われたものであるが,そこには,在来の抗租がかかげてきた要求が集約的に示されている。王朝国家の朝廷で抗租という成語がはじめて用いられるようになったのも18世紀のことであった。
19世紀の40年代から60年代,アヘン戦争から太平天国の反乱期にかけて,抗租は各地で激しい暴動となって展開され,反乱鎮圧後もその勢いは衰えることがなかった。とりわけ地主の都市・集鎮への移住がすでにかなり進んでいた長江下流南岸デルタでは,戦後の荒廃地の開墾を担った佃戸が,田面権などの呼称をもつ耕作権を掌握して抵抗を強めたため,一人一人の地主が個別的に小作料を徴収することは困難となり,史上初めて地主集団としての徴収が行われることになった。たとえば蘇州府下の各県で小作料の共同徴収機構である租桟(そさん)が設けられるのはこの時期であった。租桟は,やはりこのころ,同府下各県の役所の小作料徴収部局として置かれた押佃所と協力し,双方から多数の小作料徴収人を派遣し,過酷な徴収,督促を行った。租桟や押佃公所にはいずれも牢獄が置かれ,拷問や懲罰のための用具も完備していた。辛亥革命,国民革命,国民党と共産党との内戦,抗日戦争,1949年の中国革命など,20世紀の相つぐ大規模な政治闘争に際しては,農民運動がつねに激しく展開されたが,抗租はその一環として積極的に行われた。もとより,1907年前後の結成以来49年の中国革命直前まで多数の租桟を統括し,催糧警と呼ばれる武装した小作料徴収人を配備していた蘇州市の田業公会に見られるように,地主の側も,清朝,国民政府,日本軍など時の権力を後ろだてとして組織化をいっそう強めた。しかしながら抗租は不断に繰り返され,国民革命期以降には,農民をはじめとするすべての民衆の共同要求として減租(小作料削減)がかかげられるに至るなど,地主的土地所有の存立基盤をゆるがせ,中国革命の展開に大きな影響を与えた。
→小作制度 →奴変(ぬへん)
執筆者:森 正夫
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抗租
こうそ
佃戸(でんこ)、佃農(でんのう)などと称される旧中国の小作農が、租(そ)、すなわち小作料の納入をめぐって行った、田主(でんしゅ)、業主(ぎょうしゅ)などといわれる地主への抵抗運動。8世紀なかば唐代後半の資料にすでに記録があるが、華中の江南デルタを中心に小作制度としての佃戸制が普及した宋(そう)代には、11世紀後半、12世紀後半、13世紀後半と、地域ぐるみの抗租の記事が散見されるようになる。明(みん)初14世紀後半にも江南デルタで小作料をめぐる抗争が行われたが、15世紀なかばに福建全域で展開された鄧茂七(とうもしち)の反乱で小作料の付加負担撤廃の要求が掲げられ、16世紀前半以来、江南デルタおよび福建方面の地方志に、風潮としての小作料の不払いがしばしば取り上げられるなど、抗租はしだいに活発となった。17世紀中葉、明末清(しん)初には、福建省の沿海地方、福建・江西の省境地方、江南デルタで、抗租を内容とする大規模な反乱ないし暴動が相次いだ。清朝支配が安定した18世紀にも、小規模の抗租暴動が断続しただけでなく、個々の小作農による小作料不払いの動きが華中・華南の諸省で例外なく進行し、水・旱(かん)害の年には、村落、あるいは市・鎮を中心にした村落群を単位として地域ぐるみで公然たる組織的小作料不払いが行われた。このため、抗租はついに王朝国家中枢の重要問題となり、1727年には雍正帝(ようせいてい)が自ら発議して小作料滞納の罪を刑法典に盛り込むに至った。「抗租」という成語も、1735年、乾隆帝(けんりゅうてい)の勅諭の「抗租の罪」という句のなかで初めて中央政府の文献に登場する。よく知られる「頑佃(がんでん)抗租」という成語も18世紀に成立したものである。
抗租の契機となった佃戸の地主に対する要求には、(1)小作料そのものの軽減、その定額以上の徴収の停止、(2)小作料の付加負担の廃止、(3)小作契約金の廃止やその徴収方法の是正、(4)耕作権の承認など各方面にわたっている。これらの多様な要求に基づいて18世紀に抗租が華中・華南全域で恒常化した背景には、16世紀以来、副業としての手工業の商品生産化、商品作物栽培の普及に基づく佃戸の経済的力量の向上がある。そのなかで定額現物小作料や定額金納小作料の普及に示されるように、地主の土地所有と佃戸の経営の完全な分離が顕著になり、「田面(でんめん)」などと称される佃戸の耕作権が社会的慣行としてしだいに定着し、佃戸の土地に対する権利を強める役割を果たしていったのである。
19世紀の40年代から60年代、アヘン戦争から太平天国の反乱期にかけて、抗租はふたたび激しい暴動の形態をとって展開されるようになり、太平天国の鎮圧後も勢いは衰えなかった。江南デルタでは地主の側がこれに対抗して小作料徴収を確保するべく「租桟(そさん)」などの共同徴収機構を設立し、行政当局が小作料徴収部局として設置した押佃所(おうでんしょ)と提携し、牢獄(ろうごく)や拷問のための刑具を完備して佃戸に厳しい弾圧を加えた。しかし抗租は持続的に戦われ、辛亥(しんがい)革命から1940年代後半の解放戦争に至る20世紀の政治的激動期には、農民運動の一環を構成して中国革命に大きな影響を与えた。
[森 正夫]
『周藤吉之著『中国土地制度史研究』(1954・東京大学出版会)』▽『山根幸夫他著『世界の歴史11 ゆらぐ中華帝国』(1961・筑摩書房)』▽『谷川道雄・森正夫編『中国民衆叛乱史4 明末~清Ⅱ』(平凡社・東洋文庫)』
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抗租
こうそ
Kang-zu; K`ang-tsu
中国における佃戸 (でんこ。農奴的小作人) の地主に対する抵抗運動のこと。「租」は地代 (小作料) 。佃戸の反抗はすでに宋代からみられるが,16~17世紀のいわゆる明末清初の時期に活発化し,揚子江下流域の江南地方ではほとんど日常的なこととされるにいたった。当初は現物地代運搬義務,付加的地代 (副租) ,度量衡の不正などに反対する運動であったが,明・清交代期には奴婢解放運動と呼応したものとなった。明末清初以降には地代軽減の要求,納入の拒否など,いわば「村ぐるみ」で組織的,暴力的に発展し,地代の慢性的な滞納,立ちのきの拒否など個々の佃戸の闘争も日常化するにいたった。これには大土地所有の発展と,それに伴う大地主の寄生化,農民を巻き込んだ商品生産の発達,実質的には一つの田に2人の権利所有者がいる一田両主慣行の普及などによって,封建的小農民経営としての自立度が強化されたことが背景となっている。 19世紀後半の太平天国鎮圧後,江南の地主たちは地主の連合もしくは請負による地代徴収機構 (租棧など) の整備と官権力との結合によって抗租運動に対処しようとした。農民の抵抗も継続され,辛亥革命期には地代そのもの,地主制そのものを否定する要求も出現するにいたった。抗租は中国の封建的土地所有を廃棄し,農民的土地所有を創設するための主要な闘争形態であった。なお政府へ納付すべき土地税 (田賦=税糧) の減免を要求する運動を「抗糧」という。土地税納入者は原則として土地所有者であり,「抗糧」も在地中小地主層の指導で行なわれることが多かった。しかし,江南以外の地方では,佃戸も零細土地所有者であることが多く,地主制のあまり発達していないところでは,中小地主を含めた自作農,貧農の闘争の主要な形態であった。専制王朝権力の末端に対する反抗という点でも「抗糧」は重要な意味をもつ。
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世界大百科事典(旧版)内の抗租の言及
【小作制度】より
… 田底権のみをもつ地主をはじめとして土地改革直前の江蘇南部では,在村の地主は小規模のものに限られ,大地主,中地主は県城クラス以上の都市か集鎮といわれる農村の市場町に住む不在地主であり,彼らは連合して小作料徴収のための機構を組織し,専属の小作料徴収人を雇うとともに,地方官庁や警察の援助によって小作料を徴収した。個々の地主によってではなく,地主の連合組織が政治権力と恒常的な協力体制をとらざるをえなかったというこの事態は,19世紀半ばころ,太平天国の政権樹立前後から,[抗租](小作料支払いに対する小作農の抵抗運動)がこれまでになく激化したことと対応している。宋代に開始された小作農のこの抵抗運動は16世紀からの明後半期,とくに17世紀明末・清初に大きな高まりをみせ,18世紀清朝中期から19世紀前半には華中・華南の各省で恒常化し,19世紀中葉を迎えるのであるが,この過程は租佃制自体の大きな変貌と佃戸の社会的・経済的力量の向上をその基礎にもっていた。…
【鄧茂七の乱】より
…鉱賊と連絡して一大反乱を展開したが,国家の圧倒的兵力,反乱民の内応などのために鎮圧された。この反乱は,直接生産者である佃戸が,彼ら自身の自由で自立的な農業経営を確保するための[抗租]闘争の原初形態であった点とともに,反乱を指揮領導した者が無頼(ごろつき)であった点が重要である。【西村 元照】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」