改訂新版 世界大百科事典 「小作制度」の意味・わかりやすい解説
小作制度 (こさくせいど)
広義には,生産者が土地や生産手段をその所有者から借り受けてみずからの経営の用に供し,その代価を支払う制度をいう。通常は農業について使用される語で,単に小作といえば耕地の小作のことである。語源的には,日本中世の名主(名田所持者・親方)と名子(子方)との間の土地貸借関係から生じたもので,〈子作〉という意味であった。またヨーロッパについても,中世末期以降の土地の貸借関係を指して小作ということがある。本項では日本,中国,ヨーロッパの小作制度について記述する。
日本
日本史研究において使用されている小作制度の意味は,江戸時代中期以降,農地改革まで続いた耕地貸借関係で,近代の農地制度を特徴づけていた制度のことである。なお耕地以外の貸借関係では,山小作・牛馬小作という言葉もあるが,ここでは狭義の小作,すなわち土地所持者たる地主が生産者たる農民(小経営)に耕地を貸し付けて,地代たる小作料をとるという形態に限定しておきたい。小作制度が問題となるのは,それが日本の近代農業を規定し,かつ特徴づけている農地制度だからである。もともと地代や地価という土地にかかる費用は農業経営にとって役立たない部分であるが,日本ではそれが極めて過重であるのみならず,小作関係を通じて地主と小作農との間に人格的支配関係が生じ,農業経営を不自由にしているという特質をもっていた。このため小作制度は,農業問題の主要課題の一つとなっていた。
小作制度発生の条件
一般に自立した小農の小作とみられる耕地貸借関係は,近世初頭に発生したといわれている。しかしこの時期の耕地貸借関係は,中世土豪的な名主経営の近世的解体の過程で生じたもので,近代まで続く小作制度とは性格を異にしている。近代に接続するような小作制度の発生は,封建農民の生産力が一定の発展を遂げた江戸中期,18世紀前半期と考えられ,《民間省要》などの記録がそれを示している。自立小農の小作が発生する前提条件は,小農が小作料を支払い得るような生産力条件をもっていることである。小作料は,領主への年貢のほかに地主取分を払うのであるから,それを支払ってなお再生産が可能であるためには,高い生産力と余業による所得が必要であった。この生産力や余業の状況の地域差に従って,小作制度の展開にも大きな地域差があった。一般に商品経済が発展した地域では,それに刺激されて生産力も高まり,また余業の機会も増えるため,小作関係が広く成立した。こうした地域では小農の貧富の差が拡大し,貧窮した小農が田畑を質入れしてそれを小作するという形態が広く発生した。直ちに土地の売却とならなかったのは,田畑(でんぱた)永代売買禁止令という封建農民への土地緊縛令があったためである。こうした状況が生ずると,初期から存在した名田小作も性格を変え,小作農の自立化・商品経済化が進んだ。また小農生産力の上昇は手作大経営を縮小させ,その分を小作に出して,いわゆる第2次名田小作の形態を発生させた。
執筆者:安孫子 麟
近世小作制度の諸相
近世の小作については最も体系化された地方書である《地方(じかた)凡例録》では,〈自分所持の田畑を居村・他村たりとも他の百姓へ預け作らせ,又は田畑を質地に取り,元地主にても別人にても小作させ,年貢の外に余米又は入米などゝと云て,壱反に何程と作徳を極め作らするを云,元来は佃と云ものなれども,世俗小作と唱へ来る〉と述べており,預作,下作,掟作,請作,卸作,掛け放ちなどとも呼ばれた。小作地の大部分は田畑であるが,屋敷地,山林などの地目も対象となり,一部の地域では牛馬などの家畜も小作の対象となっている。小作人の名称については作人,作子,門百姓,被官,名子などがあり,小作料は掟米,下作米,加地子,余米,入上米,小作奉公などとも呼ばれた。近世の小作制度に関しては,《地方凡例録》では直(じき)小作・別小作・永(えい)小作・名田(みようでん)小作・家守小作・入小作の6種類をあげている。また,小野武夫は近世の多様な小作慣行の存在を指摘し,小作地・小作人・小作料・小作期限という四つの指標にもとづいて31種類に整理し,小作形態を小作地の物権的特質から名田小作と質地小作に大別し,さらに名田小作を普通小作と永小作に,質地小作を直小作と別小作にそれぞれ分類している。
名田小作とは中世の名主田とは異なり,近世の土地制度の根幹である検地によって高請(たかうけ)された土地の貸借にもとづくものであり,無高(むだか)あるいは零細高持(たかもち)農民が大高持農民から田畑屋敷地を借り受けて耕作する形態である。名田小作の発生については,農民の間に階層差が存在し,しかも大高持農民層が自分の所持する田畑をすべて自作しないかぎり,近世を通して絶えずみられる一般的な小作形態といえる。たとえば,後進地において在地土豪主の手作り大経営に包摂されていた従属農民層が,検地帳に高請された田畑を貸与されて自立化していく過程は名田小作の発生となる。この場合には,小作料の収取という経済的事情よりも主従関係という身分的色彩の強い小作関係である。百姓寄合新田,町人請負新田などのような新田開発主による小作経営も名田小作の一種とみなすことが可能であり,近世中期以降に各地に新田地主が登場するようになる。普通小作には年季小作と無年季小作があり,年季小作は一定の年限をきって小作契約を結ぶものであり,無年季小作は年限を定めずに小作をすることである。また,永小作は小作地に対する小作人の権利が強く,無期永代の小作年季とし,永小作料が普通小作料よりも格段に低いもので,新田開発地にみられる小作形態である。
近世の土地制度では幕府の田畑永代売買禁止令によって土地移動が規制されていたが,元禄期(1688-1704)以降には田畑を質権に設定する土地金融の進展にともなって永代売買禁止令が骨抜きにされ,一方幕府も質地取扱い規定を整備する法令を発布して永代売買禁止令の事実上の撤廃に踏み切っている。これが質地小作の発生である。本来の質地は質入人が金主の質取人に借金を返済して田畑を受け戻すことを慣例としたが,表面上は質地の形式をとりながらも質流れを前提とした実質的な土地移動へと移行するようになり,地主による質地関係を中心とした土地集積が進み,享保期(1716-36)以降には各地に広範な地主・小作関係が展開した。質地小作は当初から小作料収取という経済関係にもとづいた小作形態であり,年貢は原則として質取人が負担した。質地小作において質入人が質地をそのまま小作することを直小作といい,小作年季は質入年限に相当する。また,質入人以外の者が質地を小作することを別小作という。
幕末期における小作関係の展開については,幕領と私領,水稲単作地帯と二毛作地帯,あるいは水田地帯と畑作地帯などで,小作地率の地域差が著しく小作形態も多種多様であり,しかも地主と小作人の経済的利害を集中的に表現する小作料率にも大きな差異があった。当時の小作料は領主取分としての年貢と地主取分としての作徳が含まれ,高率現物納といわれる小作料率であった。ただし小作人が地主に支払う小作料には,小作料を前納する敷金小作,収穫物を一定の割合で配分する刈分け小作,作柄に応じて小作料を決める見取小作,豊凶にかかわらず一定の小作料を支払う定免小作,小作料を労働力で支払う小作奉公などの方法があった。第2次大戦前の日本資本主義の基底をなした寄生地主制をめぐる封建論争は,幕末期に事実上形成されていた小作関係と小作料の歴史的性格を議論の対象としたものである。
→小作農
執筆者:佐藤 常雄
近代小作制度の確立
江戸中期に発生したこの小作制度は,それがいかに広範なものになっても,領主的土地所有と対立する限り容認されるものにはならなかった。領主は事実上の土地兼併を抑制し,質地の解消をはかることもあった。こうした小作制度が法認されるためには,封建領主的土地所有が否定されなければならず,それは明治維新の変革によって与えられたのである。維新変革ではまず廃藩置県によって封建領主制が否定され,ついで地租改正のなかで土地所有権が確定されていくとき,領主的土地所有権が完全に廃棄された。土地の私的所有が確立すれば,土地の兼併・貸借は自由となる。地租改正は,小作関係のある土地の保有権者を地主と認定することによって,地主的土地所有を法認し,小作制度もまた法認されたのである。これによって小作制度はさらに広く展開していった。
とくに高率定額の金納地租の実施は,農民を強制的に貨幣経済に巻き込み,その負担で貧窮化する小農が増加した。1881年からのデフレ期の米価暴落がこれに拍車をかけ,小作に転落する農民が急増した。この結果,地租改正時の推定小作地率28%は,30年後には45%にまで達したのである。他方では,地主の成長がみられ巨大地主(1000町以上所有)も発生した。こうして確立された小作制度は,民法によって地主利益が保証されたため,小作農の権利はほとんどないものとなっていた。
小作関係の内容
小作関係の基本は土地の貸借関係,小作料収取の関係であるが,内実はもっと多面的な関係をもっていた。ここではまず基本となる貸借関係からみよう。江戸時代の小作関係は,それが法認されないこともあってまったく慣習としてのみ行われていた。しかし近代的な土地所有権を認めたうえは,小作関係における権利関係が明確にされなければならなかった。政府は早くから法的規定を与えようとして小作条例草案や旧民法を起草し,従来地主の力によって維持されてきた慣行を法制化しようとした。しかしこれは,わずかとはいえ小作人の権利をも明らかにすることになり,このため地主側の反対で流産していった。ようやく新民法(1896)によって小作関係を地主の債権という地主有利の立場から規定したが,実態はさらに地主の力の強いものであった。それは,地主の土地引上げ(小作解消)の自由に端的に示される。地主の貸付権は通常の債権よりもはるかに強いという実態をもっていた。文書化された小作契約には,ほとんど一方的な解約条項(土地引上げ)がある。小作料の延滞や不足の場合はもちろん,耕作の仕方が悪いとき,検見の査定に異議を唱えた場合等々,いつ解約されてもいいという条項がある。ここから,地主の小作に対する人格的支配力が生じている。逆に,小作人は地主に頼らざるを得ないために,さきの条項が可能だったといえる。
こうした関係は小作料に反映している。小作料は基本的には現物納で,畑や桑園小作で一部金納もあったがそれは少なかった。現物小作料ということは,それだけ小作人を商品経済から隔離し,地主経済の活躍基盤を広げることを意味した。小作料率は地租改正時に68%という基準例が示されたが,実際はもっと低い。しかし1885年で58%,1910年54%,1920年49%という状況であった。この高負担に耐えられない小作人は地主の恩恵にすがることになる。これは近代的契約関係以前の状況であった。地主の恩恵は日常生活の世話のほか,小作料の減免慣行としてあらわれた。もともと契約小作料は豊作時を基準としたから,多くの場合多少の減免がみられた。これが恩恵として意識され,地主・小作の結合を強化していた。他方,小作料は地主の販売する商品となるから,精選米であること,俵装が良いことも要求された。とくに米穀検査制度が実施されると,一定等級以上でないと小作米とならなくなったため,小作人の負担が大きくなった。また,冷害になりやすい晩稲種の作付けが禁止されている例もある。このように,小作料の規定をみると,地主のもつ前期資本的性格が明瞭にあらわれていた。
こうした前近代的性格をもつ小作制度に対して,小作人の権利を主張する動きも強まった。小作内容の面では,永小作権の設定がそれである。永小作権は物権として扱われ,登記されることもあったから,多少豊かな小作人は金を払って永小作権を設定して,地主の小作解消に対抗した。しかし,それは量的にはわずかなものにとどまっていた。
小作問題への対策
小作人のもう一つの対抗策は農民組合による小作争議であった。小作問題が社会問題となるにつれて,政府は争議の鎮静のために,一方では小作立法,小作権の一定の承認を構想し,他方では自作農創設維持政策によって小作人に小作地を買い取らせ,また窮乏自作農の小作人への転落を防止することに努めた。前者についていえば,1920年に小作制度調査委員会が設けられ,小作協約や小作組合を含む広い小作法が構想されていた。しかしその法案要綱や草案は地主層の反対により,ついに小作権法認を含む小作法は成立しなかった。こうした改良主義的方向がつぶされると,逆に小作争議対策(抑制)法として小作調停法が制定された(1924)。これにより調停に農民組合が介入することが困難となり,地主側の争議対策に大きな力を発揮した。制定3年後に調停件数3600件を数えるに至ったのは,この間の事情を示すものである。自作農創設政策は小作人に自作化の幻想を与えて闘争を緩和させ,他方慢性的不況の下で悪化していた地主経済に対して転業資金を与えるという役割を果たした。その資金は1926年度より予算化され,小作人の土地購入資金として貸し付けられた。返済は25年賦であった。この資金により低落しつつあった地価を引き上げ,地主の土地売逃げを容易にしたのである。この政策は,地主と小作人との間の個別的交渉にゆだねていたのであるが,有償の自作地・自作農化によって農民運動を抑え,農業問題を解消しようとした点では,戦後の農地改革の先駆的形態という面をもっていた。
小作問題に大きな変化を与えたのは戦時経済であった。国家総動員法と同じ1938年に制定された農地調整法は,土地処分に関する特別規定を含んでおり,地主の土地取上げが初めて制限された。民法の規定からようやく一歩前進したのである。その後小作料統制令(1939)によって小作料の適正化(引下げ)と引上げ禁止が定められ,地主の力は大きく制約されるに至った。さらに供出制度によって小作料の現物納は事実上代金納制となり,生産者に米価の加算額が設けられることによって小作料率は低下していった。こうして,敗戦後の農地改革を迎えたのである。
→小作争議
執筆者:安孫子 麟
中国
中国では小作制度は租佃制(そでんせい),すなわち土地を借りて小作する制度と呼ばれている。
租佃制の歴史的展開
漢代,すでに民間で,貧しい農民が豪民・兼併の徒と呼ばれる大土地所有者から土地を借り,収穫の5割あるいはそれ以上の比率で生産物を納入しており,こうした土地を仮田(かでん),制度を仮作(かさく)と呼んでいた。国家所有地としての公田においても仮作制が行われた。土地の借用と地代の納入の形態をとるこうした制度は,六朝時代の豪族の土地でも行われ,耕作する農民は佃客と呼ばれた。漢・六朝の豪民・豪族の大土地所有の耕作農民としては奴婢が非常に重要な位置を占め,一方自己の土地を所有してみずから耕す自作農も多数存在していた。農業生産に直接たずさわる生産者の中で,漢代の仮作農民,六朝の佃客の占める比重は必ずしも高いとはいえず,この情勢は北朝から隋・唐に継承された均田制の下でも変わらなかったが(均田法),唐後半期の国都長安周辺では民間の私田における租佃制の発達が記録されている。なお,唐代の敦煌,トゥルファン(吐魯番)など西方の辺境では,耕作農民が相互に住居と離れた土地を貸借する租佃制が行われたが,この場合,土地の所有者と借り手との関係は比較的対等であったといわれている。10世紀,宋代以降の農業における生産関係のうえで,租佃制がこれまでにはない大きな比重を占めるようになった。とりわけ華中・華南では,低湿地を堤防で囲いこんで,囲田(いでん),圩田(うでん)と呼ばれる水田が造成されるなど,水稲栽培技術が飛躍的に向上し,大土地所有者は自家で経営しうる規模をこえる土地の大部分を,佃戸(でんこ)と呼ばれる小作農民に貸与し,租と名づけられる小作料を徴収するようになり,租佃制の発達は目覚ましかった。しかし華北の畑作地帯では,宋と金,金と元の戦乱の影響もあり,清初まで租佃制の発達は停滞した。
租佃制は,1949年の中国革命前後に中国全土にわたって推進された土地改革の中で完全に消滅した。この土地改革時の農村の階級区分は地主・富農・中農・貧農・雇農の5段階であり,土地所有の有無と多少,労働力の搾取・被搾取の有無と多少を組み合わせることによってなされている。すなわち,地主・自作農・佃戸(小作農)という租佃制(小作制度)を基準にした区分はなされていない。この区分は租佃制の発達が清中期以後もなお相対的におくれ,雇用労働者を用いる富農経営の比重の高かった北方だけではなく,租佃制の発達していた華中・華南においても同様であった。このことは,土地改革直前の華中・華南においても,土地が地主階級の独占物ではなく,貧農,雇農など,原則としては他人の労働力を搾取しない階層もわずかではあるが土地を所有していたことを示している。また租佃関係も複雑であり,地主のうちみずからも経営に従事している経営地主が他人の土地を借り入れて小作したり,原則として他人の労働力を搾取しないとされる中農や貧農や雇農の中にも,働き手がいなかったり,少なかったりするために土地を小作に出している者があった。こうした様相は,アヘン戦争前における租佃制の顕著な発達期であった清代中期,18世紀において,国家が策定した江南地区被災農民の調査基準にも示されていた。
しかしながら,すでに18世紀において租佃制がとりわけ発達していた華中・華南では,土地所有の不均等は顕著であった。長江(揚子江)下流南岸の江蘇南部では土地改革直前,総農家数の54.5%を占める貧農が19.44%の土地しかもたず,総農家数の2.33%にしかすぎない地主階級が36.19%の土地を所有しているという不均等がめだち,とりわけ租佃制の発達していた蘇州・松江地区では地主が50%前後の土地を所有していた。また江蘇南部では地主の土地の83.65%が佃戸に貸し出されており,貧農や雇農の使用する土地の50~60%が小作地であった。租佃制は農業における生産関係の中で主軸の地位を占めていたのである。租佃制の具体的な存在形態は土地改革直前の江蘇南部では次のようであった。
租佃制の存在形態
小作料の形態は定額小作料(定租)が普及していたが,定率小作料(分租)も各地で並行して実施され,定率小作料の占める割合が20~30%をこえる県もあった。またその年の生産高の多少によって小作料の徴収比率を定める場合(活租(かつそ))もあった。これらを通じて,1畝(日本の6反7畝)の生産量(玄米2石。日本の1石1斗)の約50%が小作料として地主により徴収された。米の裏作に麦が栽培される場合には米4:麦1,米3:麦1などの比率で徴収が行われた。二,三の県では,地主の土地を借りる代償としてその地主の別の土地に出向き,年間数十日の労働を提供する労働地代がかなり広がっていた。小作料の実質的増徴をはかる地主が,公定のものよりも大きい升や,目盛をわざと軽くしたはかり(秤)を用いることも少なくなかった。この地方の租佃制の特徴の一つは,明代後半期以来,華中・華南でしだいに発達してきた小作農の耕作権の普及が顕著なことであった。田面権と呼ばれる耕作権の確立している小作田では,地主は,田底権と呼ばれる耕作権と切り離された土地の所有権のみを保持した。小作農は,地主の意志とはかかわりなく,その所持する田面権を転買・入質あるいは譲渡することができた。自分の田面権を売り,従前からの田底権をもつ地主と田面権を買い取った地主の両者に対して小作料を収める小作農もおり,前者の小作料は大租(だいそ),後者の小作料は小租(しようそ)と呼ばれた。地主が田底権のみを所有し,佃戸が田面権をもつ田土の小作料は一般の小作料よりも低く,長い租佃制の歴史を通じて小作農の地位がたしかな上昇を遂げていたことを示している。蘇州近郊のある村では,地主40戸の85%に当たる35戸が田底権のみをもつ地主であったという。しかしながら田面権そのものの購入に費用がかかるため,小作農の負担は少なくなかった。
田底権のみをもつ地主をはじめとして土地改革直前の江蘇南部では,在村の地主は小規模のものに限られ,大地主,中地主は県城クラス以上の都市か集鎮といわれる農村の市場町に住む不在地主であり,彼らは連合して小作料徴収のための機構を組織し,専属の小作料徴収人を雇うとともに,地方官庁や警察の援助によって小作料を徴収した。個々の地主によってではなく,地主の連合組織が政治権力と恒常的な協力体制をとらざるをえなかったというこの事態は,19世紀半ばころ,太平天国の政権樹立前後から,抗租(小作料支払いに対する小作農の抵抗運動)がこれまでになく激化したことと対応している。宋代に開始された小作農のこの抵抗運動は16世紀からの明後半期,とくに17世紀明末・清初に大きな高まりをみせ,18世紀清朝中期から19世紀前半には華中・華南の各省で恒常化し,19世紀中葉を迎えるのであるが,この過程は租佃制自体の大きな変貌と佃戸の社会的・経済的力量の向上をその基礎にもっていた。16世紀以来,地主の中に農村から離れて不在地主化する者が増大し,小作農が市場にみずから赴いて米を販売したり,綿糸・綿布,絹糸・絹布製造の家内手工業に従事するなど商品生産者としての活動を始め,農家経営の自立性を高めてきた。一方,大資本を擁する商人が地主と小作農との間に分け入り,佃戸に高利の穀物・貨幣を貸し出し,その返済のため,小作料納入がおくれるという状況も出現していた。田面権所有者と田底権所有者が並立する慣行,すなわち一田両主制の地域的普及を示す記録が資料に残されるようになるのも16世紀以来である。
ちなみに租佃制の下での金納小作料は16世紀に始まり,18世紀には各地でしだいに比重を高めたが,土地改革直前の江蘇南部でも,なお実質50%前後の高率で現物小作料が大半を占めており,この点において租佃制は封建的な性格をもつ生産関係であった。しかしながら,他面,宋代以来の租佃制は一貫して,民間の私人である地主と同じく私人である小作農の契約という形式を保持しており,19世紀中葉以降,むきだしの暴力的小作料徴収が行われたものの,社会制度としての経済外的強制は未熟のままに終わった。また,地域によってはかなりの数の小作農が保持するに至った耕作権のもつ物権としての性格は非常に明瞭で,一種の分割的所有権の様相をも呈している。前者は中国の租佃制が本来的に内包する非封建的側面を,後者は地主的土地所有に代わる近代的な農民的土地所有形成への可能性を示している。
執筆者:森 正夫
ヨーロッパ
ヨーロッパにおいては,古代ローマ帝国末期のコロヌスが一種の小作制度とみなされる場合もあるが,それはむしろ中世農奴制の先駆であり,本来の小作制度は中世末期に領主制が解体しはじめてからのちに本格的に展開し,資本主義の下でさまざまな形態をとりながら今日まで存続している。ヨーロッパの小作制度も,地主(土地所有者)が,その所有地を,通常は一定期間を限って,小作農民に貸して経営させ,その対価として小作料(地代)を徴収する,という意味では日本の小作制度とほぼ同一の形態をとっている。だがヨーロッパ(とくに西ヨーロッパ)では,地主が小規模ないし零細規模の小作農民に土地を貸す(小作させる)場合のほかに,地主が資本主義的な大規模農業経営者に土地を貸すという場合が広範にみられ,後者の場合は日本語の〈小作〉とは大いに意味が異なっている。したがってとくに後者の場合には,小作の代りに借地制度・借地農(借地農業経営者)などの語を用いることが多い。
小作制度の本格的展開はほぼ16世紀以降であるが,その前提になったのは,領主制のある程度までの解体であった。すなわち小作制度が成立するためには,第1に従来の封建地代(領主の徴収する年貢など)の水準が相対的に低下して,剰余生産物の一部が小作料という新たな形態で農民から徴収されうるようになることが必要であり,第2に土地に対する領主の権利が後退して地主の土地所有権が強化され,同時にその地主の土地所有規模が拡大されることが必要であった。こういう事情は14~16世紀のフランスで典型的にみられたので,以下,小作制度の成立・展開過程をフランスについて略述する。
フランスでは14,15世紀に,疫病や戦乱で農村人口が減少し領主所領が荒廃したので,所領を再建するため領主は農民に対し一定の譲歩を余儀なくされ,その結果,封建地代の水準が低下するとともに農民の土地保有権が強化されて,保有地の相続・売買・賃貸借が可能になり,保有権が所有権に近いものになった。貨幣経済の進展につれて農民的商品経済が展開するようになると農民層の内部がしだいに分解し,一部の富農はその所有地(保有地)を拡大し,それを貧農に小作させて小作料を徴収するようになり,ここに富農の地主化による小作制度の端緒が成立した。16世紀には商工業や金融業で産をなした都市のブルジョア(町人)が安全な投資先を求めて大量に農地を購入してこれを小作せしめ,また領主自身も直領地を拡大してこれを小作せしめるようになったから,こうしたブルジョアの地主化と領主自身の地主化とによって,小作制度は急速に進展した。16,17世紀のフランスでは,地主はその大土地所有をいくつかに区分して小規模な小作農民に小作させるのが通例で,小作料徴収の形態としては,一定額の貨幣または一定量の生産物を徴収する場合と,収穫物を一定の割合(主として折半)で地主と小作人とで分け合う場合とがあり,前者は定額小作fermage,後者は分益小作métayageと呼ばれる。小作契約期間は3年ないし9年であったが,18世紀には9年契約が増加した。
イギリスにおいても,中世末期から16世紀にかけて,領主制(マナー体制)の解体とともに小作制度が急速に展開したが,フランスの場合と違って農民の土地保有権が弱かったので,領主自身が農民の土地保有権を借地権leaseに切り換えて地主化していく傾向が強く,とくに16世紀の第1次囲込み(エンクロージャー)から18世紀の第2次囲込みを経過するうちに,小土地所有農民はいちじるしく減少し,地主の大土地所有が支配的になった。そして16世紀から18世紀にかけ,地主の大土地所有を一括して借地し,その大規模な借地を農業労働者を雇用して資本主義的に経営する資本家的大借地農業経営者が広範に誕生した。したがって近代イギリス(アイルランドを除く)の小作制度は,近代的土地所有者(地主)と,資本家的大借地農と,農業労働者との3者から構成される(三分割制ともいう)のであり,通常これを資本主義的(近代的)借地農業制度と呼んでいる。
フランスにおいても18世紀には北部先進地帯でイギリス型の資本家的大借地農業経営者がしだいに増加し,19世紀のうちに小規模な分益小作制度はしだいに減少していったから,大づかみにいって西ヨーロッパの小作制度は18,19世紀に資本主義的借地農業制度に転換したといえる。ただイギリス支配下のアイルランドでは小規模な小作農が多く,19世紀のイタリアでもメッザドリーアmezzadriaという小規模な分益小作制度がかなり広くみられた。なお農用地総面積の中で小作地(借地)面積の占める割合は,フランスでは19世紀末から現在まで一貫してほぼ50%であるが,イギリス(イングランドとウェールズ)では1913年の89%から1960年の51%へと減少している。
→地主 →領主制
執筆者:遅塚 忠躬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報