七分積金(読み)しちぶつみきん

精選版 日本国語大辞典 「七分積金」の意味・読み・例文・類語

しちぶ‐つみきん【七分積金】

  1. 〘 名詞 〙 江戸時代、寛政三年(一七九一)、老中松平定信の発議ではじめられた江戸市中の備荒貯蓄。市中町入用を四年間節約して金四万両つくり、その二分を地主徳分とし、一分町内に積置き、残り七分江戸町会所に積立て、利殖運用した。七分金積立
    1. [初出の実例]「今世江戸の市中七歩積金とて年々官に納めて糶倉と云官倉府に集める物左の田のもし古の貸税也」(出典:随筆・守貞漫稿(1837‐53)七)

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改訂新版 世界大百科事典 「七分積金」の意味・わかりやすい解説

七分積金 (しちぶつみきん)

寛政改革の中で,江戸町方を対象として始められた都市政策。1791年(寛政3)12月,松平定信らを中心とする幕閣は,町奉行所を通じて江戸の名主,地主,家守(やもり)にあてた長文の町触で,江戸町方支配の大改革を行う旨を告げた。これが,町法改正,七分積金令と呼ばれるもので,以後幕末・維新期まで江戸の都市政策の根幹をなした。

 幕府はこれに先だって,江戸の各町に1785年(天明5)から5年間の地代店賃(たなちん)上り高,町入用(ちよういりよう),地主収入等を書上げさせた。この結果,1年分の町入用は江戸全体で金15万5000両余に及ぶことがわかり,このうち3万7000両が節減可能とされた。この節減可能分の2割を地主収入に還元し,1割を各町に留保させ,残る7割を強制的に江戸町方全体に供出させ,これを積み立てて新たな都市政策の財源に充てようと試みた。これが七分積金で,各町の地主が自己の所持する町屋敷から収取する地代店賃上り高から支払うものとされた。また各町留保の節減分を,一分積金として独自に運用する町もあった。

七分積金は毎年2万~2万5000両に及び,勘定奉行所や町奉行所の監督の下,江戸町人の代表によって運用された。このため神田向柳原(むこうやなぎわら)には12棟の囲籾蔵(かこいもみぐら)とともに江戸町会所が設置された。江戸町会所の運営は勘定所御用達に任ぜられた10名の特権的豪商のほか,名主の代表,地主・家守からとりたてられた吏員(座人)によって担われ,江戸の地主層の一種の共同組織(会所)としての性格も有した。この改革実施の直接的契機としては,1787年5月に江戸町方全域に発生した激しい打毀(うちこわし)があげられる。これは天明の飢饉による窮乏化の中での都市下層民衆による一種の米一揆であるが,江戸全域に及んで幕府に大きな衝撃を与えた。そして,都市下層民衆を各地域ごとで本来統轄すべき町共同体や地主層の動揺を防ぎ,併せて,それまで不在であった江戸惣町ぐるみの下層民対策を一挙に確立する必要性を幕閣に認識させた。この結果,七分積金を基礎とする江戸の都市改革は,都市下層社会に対する一個の〈社会政策〉を軸として展開することになった。

 江戸町会所の第1の機能は,江戸町方全体の社倉=備荒貯穀として,飢饉や災害時における窮民への独自の〈御救(おすくい)〉を実施することにあった。向柳原をはじめ深川新大橋向や小菅などに60棟以上の籾蔵が建設されていき,文化・文政(1804-30)期には13万~17万石,幕末には数十万石規模の籾が貯蔵されたのである。これらの囲籾は毎年一部ずつ更新され,米価調整の機能をも併せて担うことになった。江戸町会所の社倉としての性格が最もよく示されたのは,1833-37年(天保4-8)天保の飢饉時と,幕末の物価騰貴を伴う政治的危機の時期等である。これらの時期には,籾蔵の大量の囲籾が放出され,銭貨とともに下層民衆に与えられるというかたちの救済が繰り返された。この救済は臨時御救と呼ばれ,明治初年を含めて17回記録されている。其日稼(そのひかせぎ)の者と呼ばれた御救対象者は,28万人から,41万人近くと,町方人別の60~80%に達した。

 機能の第2は,鰥寡孤独(かんかこどく)の窮民層の日常的な救済にあった。これは定式御救と呼ばれ,各町や地主らがカバーしきれない窮民層の保護を目的とし,白米,銭が毎年かなりの規模で支給された。

 第3の機能は,七分積金の余剰分の貸付けにあった。貸付けの目的は,七分積金の蓄積対象,利子収入源として,町会所の基盤を支えるところにあったが,併せて,江戸場末地域の小地主層の没落を防ぎ,彼らの町屋敷所持を保護するための,御救としての低利金融でもある点に大きな特徴がある。貸付け対象の多くは広範な中小地主層で,低利の家質貸付けとして広く利用された。また注目されるのは,幕府御家人らが江戸市中に持つ拝領町屋敷の地代店賃上り高を担保として,この貸付けを利用できたことである。御家人らの拝領地主層は,わずかな切米のほかに,江戸の場末町を中心として各所に小規模の町屋敷をあたかも知行地のように拝領し,そこに多数の地借や店借(たながり)を住まわせ,地代,店賃の上りを有力な収入源としていた。しかしたび重なる大火や下層民衆の流動の中で,町屋敷の安定的維持は非常に困難であり,拝領地主の多くが町会所から低利の貸付けをうけていた。そのほかの貸付けを含めて,貸付けの総額はピーク時(天保末)には35万両近くに達し,とくに拝領地主を含めた困窮小地主層の救済に大きな力を発揮した。

 江戸町会所は,幕末までに膨大な囲籾や積金を残したが,これらは明治初年に新政府が東京を掌握するうえでの貴重な財源として徹底的に利用されていくことになる。
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百科事典マイペディア 「七分積金」の意味・わかりやすい解説

七分積金【しちぶつみきん】

寛政(かんせい)改革で,江戸町方を対象にとられた都市政策。天明(てんめい)の飢饉により江戸町方全域に打毀(うちこわし)が発生したことなどから,幕府は1791年都市窮民の救済策として七分積金令を発布。江戸の町入用を節減し,節減額の7割を町会所(囲籾蔵も付属)に積立て,御救いとして低利で窮民に貸し付けた。以降幕末まで継続され,残された囲籾・積金は1868年,東京市に移管,利用された。
→関連項目町会所

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旺文社日本史事典 三訂版 「七分積金」の解説

七分積金
しちぶつみきん

江戸後期,寛政改革の一環として老中松平定信が実施した政策
1791年定信は,江戸の町人が負担した町入用の倹約を命じ,倹約分の2分を町人に,1分を各町で積み立て,残りの7分を毎年江戸町会所に積み立てさせ,幕府も2万両を補助して,窮民救済・不時の災害にあてさせた。この政策は定信失脚後も受け継がれ,明治維新後東京府庁・市役所建築などの資金となった。

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世界大百科事典(旧版)内の七分積金の言及

【寛政改革】より

…具体的には,天明年間に高揚した都市打毀(うちこわし)の再発防止であり,打毀の主体勢力の温床となっている江戸下層社会への対策である。旧里帰農奨励令,物価引下げ令,石川島人足寄場の設置,七分積金令などは,その代表的な政策であった。しかも旧里帰農奨励令にみられるごとく,この期の都市政策は農村政策と密接に関係していた。…

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