打壊とも書き,打潰(うちつぶし),打崩(うちくずし),ぶっこわしなどともいう。江戸時代,百姓・町人の中下層身分による大庄屋・庄屋層,地主・在方商人・都市富商などの豪農商の家屋・家財・生産用具類を破壊し,被害を与えた闘争手段で,近世の階級闘争のなかで最も激化した形態の一つである。とくに都市では飢饉その他による米価騰貴を原因とする都市下層民衆の米一揆=米騒動に伴う打毀が多く,500件近い近世都市騒擾の約半分は打毀が占める。したがってふつう打毀というと,近世都市の米一揆とみなして理解されることが多い。しかし百姓一揆においても,たとえば全藩一揆にみられるように,大衆的組織的強訴(ごうそ)に際して幕藩領主権力との交渉の過程で,一揆の要求貫徹のための圧力・手段としても打毀が行われた。その際に打ち毀される側は,領主権力と結託して日ごろ民衆を搾取している大庄屋・庄屋層,特権的御用商人などであり,日常のふんまんが爆発して徹底的に打ち毀されることが多かった。また幕末世直し段階になると,経済的平等を要求する世均し(よならし)の動きとも重なって,富者の施し(米金施与)だけでなく借金棒引き・質地質物返還をも要求して闘われたが,世直しの目的貫徹のために,打毀が最もラディカルに行われた。この段階になると都市打毀も世直し一揆と同じ役割をもって,幕末階級闘争史の一翼をになうのである。この二つの闘争の主体勢力としての〈芽ばえたばかりのプロレタリア的分子〉(前期プロレタリア)の存在が,農村と都市とを結ぶ紐帯の役割を果たし,かつ幕末打毀勢力の重要な構成分子だったのである。
打毀の初発は都市の場合に先行して,早くも17世紀のごく末期に,農民の闘争のなかに登場する。代表越訴(おつそ)型一揆として闘われた農民の訴願闘争も,17世紀末から18世紀初めにかけての生産力の発達,商品生産の発展に伴って領主対農民の階級対立が激化したため,対領主闘争として頻発するようになる。しかも農民内部の階層分化の進展によって,それまでの訴願・逃散(ちようさん)から大衆強訴・蜂起へと闘争形態も新たな展開をみせた。1686年(貞享3)の信濃松本藩(多田加助騒動)は全藩的強訴の最初であり,動員された一揆勢はこのとき松本城下の有力商人を打ち毀した。96年(元禄9)の但馬出石藩一揆では藩権力と結託した城下豪商を打ち毀したが,打毀軒数の多さとその徹底ぶりにおいて注目される。加助騒動とともに打毀の初発的事例として画期的といえる。18世紀に入り全藩一揆の高揚していくなかで,対領主闘争における要求貫徹の最も有効な手段として,封建権力と連携する大庄屋・庄屋,特権的御用商人層などへの打毀が,一揆に随伴して盛んに顔を出す。同時に村内百姓の参加を阻止した一揆不参加村の庄屋宅や裏切者などに対する,一揆勢の社会的制裁としての打毀もみられ,また村と町との経済的対立に伴う百姓の都市豪商打毀と,それに呼応する町方下層民衆の動きもようやく活発化した。すでに1712年(正徳2)の加賀大聖寺藩一揆を皮切りに,つづく享保期(1716-36)の諸一揆のなかにその特徴が見いだせる。
都市打毀は寛永10年代(1633-42)の宇都宮・長崎の嘆訴事件は別として,1703年の長崎町の米買占めの米商打毀が初見である。享保期には百姓一揆に付随しながらも,はじめて都市打毀の高揚期を迎える。33年江戸,高山,富山の打毀があり,いずれも飢饉による米一揆だった。なかでも江戸の高間伝兵衛店打毀は都市平民身分独自の闘争として登場したところに意義がある。幕藩制解体の始期となる宝暦~天明期(1751-89)には,全藩一揆に対応した都市市民層の指導する惣町一揆において,都市平民層は打毀の中心勢力として活躍した。その場合多くの打毀は蜂起側の圧力の手段だった。しかし天明飢饉によって継起した87年(天明7)の全国的な打毀の流行では,都市平民身分が打毀の主体となって全面的に登場した。しかも同年の江戸打毀は田沼政権没落後,松平定信政権成立直前の幕府政局に政治的影響をも与えたのである。1830年代(天保1-10)になると,幕藩制解体過程で都市・農村の下層が前期プロレタリア層として形成され,彼らを主体とした世直し一揆が幕末の階級闘争を深化させた。それは闘争形態を激化させただけでなく,闘争の広域性においても注目される。36-37年の甲州一揆(郡内騒動),三河加茂一揆,大坂の大塩の乱は,いずれも影響の大きさと情報伝播の速さなど新しい動きをみせた。開港以後の幕末の政治・経済・社会情勢の変化によって,都市と農村の地域差,闘争の自然発生性・孤立分散性はしだいに克服され,とくに66年(慶応2)の江戸・大坂の打毀を頂点とする同年の世直しの高揚は,幕府倒壊の大きな原動力となった。
執筆者:山田 忠雄
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… 幕府がこうした数多い下層民のために拝借米の支給や町会所を通しての米金の施行に力をつくしたのも,将軍家のおひざもとである江戸に社会不安をひきおこしたくなかったからである。江戸の民衆の打毀(うちこわし)は1733年の米問屋高間伝兵衛への打毀が最初であるが,87年(天明7)の大打毀は,これによって田沼政権から松平定信の時代に変わっていったほどの事件として評価された。政権を獲得した松平定信は,江戸に社会不安をひきおこさないために,これまで個々の豪商たちの数ヵ町規模の施米金でなく,江戸全体で下層民の生活保障のしくみをつくろうとして町会所をつくったのである。…
…田沼の重商主義的な政策に便乗した商人の物価つり上げに苦しむ生活困窮者や,都市に流れ込む没落貧農の増加により,都市下層貧民層が急速に増大した。彼らは,米穀買占めなどの不正が行われたり,飢饉により米価が極端に高騰したりすると,たちまち都市打毀(うちこわし)の主体勢力となった。天明期は,百姓一揆とともに,都市打毀の前代未聞の激発期でもあった。…
…18世紀に入ると強訴がふえるが,小百姓の多数参加によって,領主に対する直訴だけでなく,特権をもつ一部の百姓・町人や一揆に協力しない村役人の家宅を,制裁として打ちこわすことも起こりはじめた。加助騒動のなかでもすでに打毀(うちこわし)の端緒がみられるが,1712年(正徳2)の加賀大聖寺藩一揆は,激しい打毀をともなう全藩的な規模の強訴の画期となった。強訴の増加は一揆禁令にも反映し,幕府は41年(寛保1),〈地頭え対し強訴,其上致徒党逃散(ちようさん)之百姓〉に対する刑罰を決めた。…
…江戸町会所の運営は勘定所御用達に任ぜられた10名の特権的豪商のほか,名主の代表,地主・家守からとりたてられた吏員(座人)によって担われ,江戸の地主層の一種の共同組織(会所)としての性格も有した。この改革実施の直接的契機としては,1787年5月に江戸町方全域に発生した激しい打毀(うちこわし)があげられる。これは天明の飢饉による窮乏化の中での都市下層民衆による一種の米一揆であるが,江戸全域に及んで幕府に大きな衝撃を与えた。…
…1764‐65年(明和1‐2)武蔵国を中心に起きた助郷(すけごう)役増徴反対の百姓一揆。64年8月,江戸幕府は中山道の伝馬助郷役不足の解決と,翌年にせまった日光東照宮百五十回忌の交通量増大に対処するため,増助郷(ましすけごう)課役の方針をうちだし,板橋宿から和田宿までの武蔵,上野,信濃28宿の村々に高100石につき人足6人,馬3疋の増助郷を命じ,人馬役負担の困難な村には代金として高100石につき金6両2分を提出させようとした。…
…22年には老中水野忠之を財政専任とし,本格的財政再建に着手し,諸大名に領地1万石につき100石の上米(あげまい)を出させて当面の急をしのぎつつ,新田開発,検見法の改革,年貢率引上げ,定免制施行などにより年貢増徴をはかり,かなりの成果をあげた。ところがその矛盾が不況,米価下落,農民の年貢減免要求などの形で表面化し,32年には瀬戸内海沿岸を中心に大飢饉が発生し(享保の飢饉),翌年1月には江戸ではじめて〈打毀(うちこわし)〉が起こった。そこで36年(元文1)通貨を悪鋳(元文金銀),増発して不況を緩和し,翌年老中松平乗邑(のりさと)を財政専任に,神尾春央(かんおはるひで)を勘定奉行に登用して再び財政強化をはかり,その後しばらく安定した状態となった。…
…1686年(貞享3)の松本藩一揆(加助騒動)はその事例である。この一揆は打毀(うちこわし)をともなったが,1708年(宝永5)の水戸藩一揆は打毀をともなわない惣百姓強訴になった。惣百姓強訴には二つの形態があったが,もっとも典型的なものは激しい打毀をともなう全領域的な惣百姓強訴である。…
…江戸時代において越前などで起こった打毀(うちこわし)などを伴った大規模な百姓一揆の総称で,特定の一揆をさす名称ではない。史料上では,〈百姓蓑虫出る〉〈丸岡御領内蓑虫騒立つ〉(藩政史料),〈七月廿七日夜六ッ時みのむしをこし候〉(一揆廻状),〈蓑虫徒党致すまじく〉(村法)などと表現されている。…
…百姓一揆のなかには,村方騒動の内容である村役人の任期や不正を要求条項のなかに掲げるものがあり,また一揆の後に村方騒動が広がることもあった。豪農商に対する激しい打毀(うちこわし)である世直しの基礎にはたいてい村方騒動があり,打毀に連動して村方騒動が急速に波及していくことが多かった。なお近世村落には,村役人や地主,豪農などに対する村方騒動と同じ対抗関係ではないが,一村の内部あるいは村と村との間で山や水や地境などをめぐって山論,水論など種々の争論が発生しており,階層間の対立とあわせて数多くの村方出入が起こった。…
…政言刃傷事件とたまたま期を同じくして江戸の米価が下落したこともあって,江戸市民は政言を〈世直し大明神〉と称し,その神号を書いた数十本の幟(のぼり)が徳本寺の墓地に立てられたという。
[世直し大明神と騒動]
18世紀の半ばごろから,百姓一揆と並んで,商人,高利貸,地主の〈不正〉を追及して打毀(うちこわし)を伴う騒動が展開しはじめた。その騒動に,騒動の要求とはげしい打毀行動とを正当化するものとして,世直し大明神が登場した。…
※「打ち壊し」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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