七宝瀧寺(読み)しつぽうりゆうじ

日本歴史地名大系 「七宝瀧寺」の解説

七宝瀧寺
しつぽうりゆうじ

[現在地名]泉佐野市大木

和泉山脈中の燈明とうみよう岳の北麓、犬鳴いぬなき川の渓谷中にある。真言宗犬鳴派の本山。犬鳴山と号し、本尊は役行者作と伝える倶利伽羅大竜不動明王(秘仏)。古くより葛城修験霊場の中心的行場で霊場の奥院ともいわれる。

〔城修験道と二十八宿〕

葛城修験道は和泉山脈と金剛・葛城山地の山々を行場とする山嶽宗教で役行者を開創とする。本来山々とその独立した信仰を一本のルートで結んだ修行路を軸として成立したと考えられるが、その個々の霊地はいうに及ばず、葛城修験道の歴史的な実態は不明な点が多い。その理由として一つに山伏特有の口伝が多く残存史料での考証が十分にできないこと、また南北朝時代以降衰退に向かい、その口伝も忘れさられたことなどがあげられる。ただ葛城二十八宿と称され、法華経二十八品にあてられる経塚を、その中心行場とする点から、法華経を書写し納経するいわゆる如法経修行者の集まる修験霊場であったことは推定される。

葛城修験道の宿や行場を示す史料として、古くには「諸山縁起」に収められた「転法輪山宿次第」があるが、行場・拝所そのものにも口伝が多く、不明な点が多い。そのほかに「葛城嶺中記」「葛城峯中記」(向井家文書)、また嘉永三年(一八五〇)葛城修験道の復興のために作成された「葛嶺雑記(七宝瀧寺蔵)などがあるが、宿・行場の所在や名称に異同があり、その所在比定を困難にしている。葛城修験の展開に伴う変遷や修験集団の流派によって相異のあったことが考えられる。そこで、以下「葛嶺雑記」を主として中心行場となった宿の跡をたどっていく。まず同書は葛城修験道の霊場「葛城の峯」について、「かつらきは大和のくにゝ限るにあらず、このみねは東南に紀の川のながれをしき、西南には友がしま、西北は海浜の山際をかぎり、東北は石川のながれをさかへ、大和川の落合よりその水上にいたりては、亀瀬といへる所にをはる。惣じて紀・泉・河・和の四か国に跨りて、行程二十八里が間の惣名なり」と記し、紀淡海峡の現和歌山市のともヶ島から、和泉葛城山・金剛山・二上にじよう山を経て、現奈良県・大阪府境の大和川の亀瀬かめのせ(現柏原市)までの約一〇〇キロにわたる山岳修行地の総称としている。

一の宿は友ヶ島で、同地序品じよぼん窟を法華経序品第一の地とする。ここから加太かだ(現和歌山市)に渡ると伽陀かだ寺があり、迎之むかいの坊に山伏の宿があった。二の宿は紀州西庄にしのしよう(現同上)神福じんぷく寺で高祖(役行者)堂脇の塚が方便品第二の地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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