大木村(読み)おおぎむら

日本歴史地名大系 「大木村」の解説

大木村
おおぎむら

[現在地名]西有田町大字大木

山谷やまだに村の南にある。現在この一帯には広瀬ひろせ村の地域を含めて広瀬山・広瀬・立部たちべ大木宿おおぎしゆく山本やまもと桑木原くわのきばるの六字がある。

西部の国見くにみ(七七六メートル)くり(六五〇メートル)八天はつてん(七〇七メートル)に連なる西岳にしだけ山地から東流する浄源寺じようげんじ川が、北流する有田川に合流する。扇状地が形成され、扇端の湧水帯に大木宿・立部の集落が立地する。

慶長絵図に大木村とあり、下山田しもやまだ村・川野かわの村・広瀬村・仏原ほとけのはる村などが「大木ノ内」と記される。


大木村
おおぎむら

[現在地名]泉佐野市大木

樫井かしい川の上流域で土丸つちまる村の南、和泉山脈中にある。村のほぼ中央を粉河こかわ街道が通る。中世の入山田いりやまだ村は四ヵ村からなり、そのうちに大木村がある。文暦元年(一二三四)一二月二日の日根庄諸村田畠在家等注文案(九条家文書)には「大木原」「大木窪」などが入山田村の小字名としてみえる。村名は建武四年(一三三七)二月三日の日根野盛治軍忠状(日根文書)にみえ、日根野盛治が同年正月一四日「大木村」内に籠った南朝方の名手源蔵人教治を攻め、戦功を挙げている。応永二四年(一四一七)九月二〇日の入山田四ケ村段銭・田数・年貢米注進状(九条家文書)によると大木村の年貢田は三町四反余、仏神免田五反余、そのほかに六反余の段銭を課せられる地があった。


大木村
おおきむら

[現在地名]結城市大木

武井たけい村東方に位置。集落は山川やまかわ沼から延びる大きなヤトに突出した台地先端部に発展し、その北方で南下してきた久保田くぼた街道が西に向きを変え、横長な集落の中心部を横断している。集落西端に円墳の狐塚きつねづか古墳がかすかに残存し、その周辺には古墳時代の集落もあったとみられている。

天正一八年(一五九〇)九月の山川晴重宛の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)に「百拾六貫文 田間うへなし 大木」とあり、山川氏領であったことがわかる。慶長六年(一六〇一)山川朝貞が越前に去ったあとは天領となり、翌七年代官伊奈忠次による「備前検地」が実施され、総州山河領之内大木村御縄打水帳(池田兵庫文書)が現存。


大木村
おおきむら

[現在地名]東員町大木

員弁川の北、員弁川とその支流戸上とがみ川に挟まれ、八幡はちまん新田の西南に位置する。「五鈴遺響」大木の項には「旧名大基ナルヘシ、神鳳抄二宮大基御厨上分田三丁、匈庄大基御厨六丁、神領目録云大墓御厨一石五斗内六九十二五斗宛、神鳳抄一本ニモ大墓ニ作ル、伝写ノ誤ナリ、勾庄モ中世ノ名ク処ナルヘシ」とあるが、「神鳳鈔」の内宮旧文殿本・御巫家本ともに「勾庄大墓御厨十丁」となっており、基を墓とする誤写についてはまだ解明されていない。


大木村
おおぎむら

[現在地名]一宮町大木

東は一之宮いちのみや村。隣村篠田しのだ村から一之宮村へ通じる新城しんしろ道が通る。天正一八年(一五九〇)池田輝政領、慶長五年(一六〇〇)幕府領、寛永九年(一六三二)吉田藩領となって明治に至る。慶長九年八月の検地帳(林文一氏蔵)によると、反別合計八四町七反余、分米合計一千二三石余である。地名に、ひろおさ・神御田・弐反田・五郎丸・おちやかいつ・こほしかいと・かいと田などの地名がみえる。

同七年八月二〇日、代官彦坂九兵衛が発行した大木町中に宛てた伝馬免許状に「信濃筋御伝馬次之事、大木新町にて立可申、上下之商人之荷物付可申、但手馬ハ通可申者也」とあって、信濃国へ向かう馬荷は当村で継立てられたことがわかる。


大木村
おおぎむら

[現在地名]瀬高町大広園おおひろぞの

松延まつのぶ村の南にあり、西流する大根だいこん川の両岸に広がる。集落は川を挟んで北大木と南大木に分れる。天正七年(一五七九)龍造寺隆信は田尻氏に対し一千町の所領給付を確約し(同年一二月九日「龍造寺隆信起請文」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、そのうち六〇三町を先給した天正七、八年頃のものとみられる年月日欠の田尻鑑種知行坪付(同上)には「六町 大木村」がみえる。


大木村
おおぎむら

[現在地名]日原町富田とみた

鹿谷しのたに村の北東、高津川支流の大木川の細流に沿って入った山間の村。集落は尾長良おながら・大木・後畠うしろばたにある。慶長七年(一六〇二)の検地高二七石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高一〇九石余、田九町六反余・畑八町六反余(「検地帳」同書)。延宝八年(一六八〇)の青原手鑑(日原町立歴史民俗資料館蔵)によると家数一九(本百姓八・無縁一一)・人数七九、牛一一・馬三、紙漉舟一二、大元森二・山ノ神森一・荒神森一・天ノ神一。文化一一年(一八一四)の村鑑(同館蔵)では高一一八石余、田一〇町五反余・畑九町五反余、家数二〇(本百姓一一・小百姓三・下作六)・人数一一〇、牛一〇・馬一、米蔵一、小社二(大元社・河内社)、紙漉舟一二、鉄砲一。


大木村
おおぎむら

[現在地名]山武町大木、八街市大木

木原きばら村の北西に位置し、作田さくだ川の上流域にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に大キ村とみえ、高二四八石。慶長一九年(一六〇四)の東金御成街道覚帳によると道普請に三町を負担している。寛永二年(一六二五)知行宛行状葛飾かつしか郡大木村(高二五〇石)、旗本天方領とあるのは当村のことと考えられる。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳でも木原組に属し、同領。元禄一三年(一七〇〇)の下総結城藩領知目録に村名がみえ、高二五〇石余、ほかに新畑二町余・寅改新田畑五反余・雑木御林三五町二反余。幕末まで同藩領(旧高旧領取調帳)


大木村
おおきむら

[現在地名]塩川町大田木おおたき

田付たづき川を挟んで大沢おおさわ村の対岸に位置する。慶徳組に属し、西は田原たわら村。村の南を阿賀川が西流する。天文一二年(一五四三)新宮しんぐう熊野社(現喜多方市)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の番付第四番に「大木西 東内大木」とみえる。なお西大木はのちの田原村、東大木はのちの大沢村にあたる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では「青木」とあり、高六五九石余。貞享元年(一六八四)の会津領高辻帳(喜多方市立図書館蔵)では高三九三石余。


大木村
おおぎむら

[現在地名]西脇市大木町

前島まえじま村の北西に位置する。村の中央を杉原すぎはら川が流れ、東岸は山地、西岸に集落がある。慶長国絵図に村名がみえ、その北東に竹嶋たけしま村が記される。その後竹嶋村は当村と東安田ひがしやすだ(現中町)に含まれる。江戸期の領主の変遷は西田井にしだい村に同じ。正保郷帳によると田方四五〇石余・畑方二一石余。延宝五年(一六七七)の検地帳(大木町有文書)では高四八九石余・反別三二町余、小物成は山手銀四〇匁余。


大木村
おおきむら

[現在地名]河合村大谷おおたに

稲越いなごえ川下流にあり、南は稲越村、北は芦谷あしだに村。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳にあふき村とあり、小鷹利こたかり郷に属し、高五〇石。この高は芦谷村分を含むと思われる。元禄検地反歩帳では高七石余、田四反余・畑五町六反余。元禄七年(一六九四)の角川村稲越江入作之御竿請帳(清水文書)によれば、大木村への角川つのがわ村からの入作は、九人で計二町五反余・三石余となり、このほかに楮・桑や焼畑も多い。この種の帳面は断続的に明治一〇年(一八七七)まで残る。「飛騨国中案内」では免二割五分二厘、家数四(うち百姓三・門屋一)


大木村
おおぎむら

[現在地名]千歳村下山しもやま ひら後大木うしろおおぎなかしも

山久保やまくぼ村の南、山の東麓にあり、南方を大野川が北東へ流れる。東は高畑たかはた村。近世前・中期には倉波くらなみ村に含まれていたらしく、元禄見稲簿の岡御領御絵図ニ出分には、倉波村のうち大木村とある。「豊後国志」には大木とみえる。


大木村
おおきむら

[現在地名]守谷町大木

鬼怒きぬ川両岸にわたる。北は板戸井いたどい村。江戸初期は旗本一色氏の領地であったと考えられる(→大円寺が、「寛文朱印留」によれば堀田正俊(のち古河藩主)領。「各村旧高簿」によれば、幕末には田安家領四八四・六二石と天領三一・六四九石の相給。鬼怒川西岸の大木流作おおきりゆうさくの地は、「北相馬郡志」によれば寛永二年(一六二五)開墾地で、大木新田と称していたが、明治一〇年(一八七七)当村に合併。


大木村
おおきむら

[現在地名]下妻市大木

大宝だいほう沼西岸の台地上にあり、西は半谷はんや村。村内は大宝沼に連なる長い谷地で二分され、谷地東側に田向たむかい、西側に稲荷山いなりやまなどの小字があり、村域は広大である。古くは青木村と記し、正保―元禄期(一六四四―一七〇四)に大木村に改めたといわれる(新編常陸国誌)。室町中期以降は多賀谷氏が支配し、慶長七年(一六〇二)に天領、延享年間(一七四四―四八)に下総佐倉藩領となる(寛政重修諸家譜)


大木村
だいぎむら

[現在地名]津島市大木町

北は蛭間ひるま村、東は北神守きたかもり村、南は南神守村、西は光正寺こうしようじ村に接している。織田信雄分限帳に「一、四百拾貫文 大木の郷 太田源内」とあるのが文献上の初見。天保の村絵図によれば、南北に長い村域で集落は北部にあって鎮守の神明社を取囲んで家屋が点在し、北端に「府志」記載の真宗大谷派西運さいうん寺がある。

清須きよす代官所支配下で高三二七石余のうち二七六石余が藩士四人の給知。


大木村
おおきむら

[現在地名]加茂川町大木

井原いはら村から豊岡とよおか川を北東に下った谷間に位置する。もと青木あおき村と称したと伝える。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二一二石余。寛永七年(一六三〇)の検地では朱印高のほか改出高九四石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によれば田畠一八町八反余、家数二八・人数一四七。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高三五〇石余は家臣池田一之介給地。


大木村
おおぎむら

[現在地名]田原本町大字大木

初瀬はせ川西岸、伊与戸いよど村の北に位置。慶長郷帳の村高四五一・九三石、元禄郷帳では四五三・四石となる。旗本武藤氏(安成)領。武藤安成は初め増田長盛、のち徳川家康に仕え、慶長一一年(一六〇六)九月二一日、大和国式下郡で五一三・七石の采地を得、勘定方であった。


大木村
おおぎむら

[現在地名]八街市大木、山武郡山武さんぶ町大木

沖渡おきわたし村の南方に位置し、作田さくだ川の上流域にあたる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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