七里渡(読み)しちりのわたし

日本歴史地名大系 「七里渡」の解説

七里渡
しちりのわたし

みや(熱田)神戸ごうどの浜から第四二宿の桑名くわな(現三重県)までの海上航路みや渡ともいった。「尾張志」には「熱田ノ渡リ」とあり、「間遠の渡り」ともいうと記している。東海道五十三次中、唯一の海上路。東海道五十三次としての渡しの始まりは元和二年(一六一六)からといわれ、常時七五隻の船が用意され、熱田船番所の支配を受けた。

船役の者は総計三六〇人で、みな三ヵ浦(須賀浦・大瀬子浦・東脇浦)に住していた。

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百科事典マイペディア 「七里渡」の意味・わかりやすい解説

七里渡【しちりのわたし】

尾張国愛知郡の(みや)宿(現愛知県名古屋市熱田区)の神戸(ごうど)の浜から,伊勢桑名(くわな)宿との間にあった東海道唯一の海上航路。宮渡・熱田渡・間遠渡とも呼ばれる。1601年徳川家康により東海道の経路が制定された時,木曾三川が流れる伊勢湾沿岸を迂回する陸路を避け,伊勢湾を通る海上航路七里渡が官道と定められた。渡の始まりは1616年からともいう。熱田船番所の支配を受け,常時数十隻の船が用意された。所要時間はおよそ4時間で,航路は満潮時には陸地沿いを通り7里,干潮時には沖を回り9〜10里であった。1625年には神戸の浜に常夜灯が設けられたが,1651年以降夜間の航行は禁止された。なお近世中期以降は伊勢四日市へ直接渡る十里(じゅうり)渡なども利用された。→佐屋路
→関連項目熱田[区]

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改訂新版 世界大百科事典 「七里渡」の意味・わかりやすい解説

七里渡 (しちりのわたし)

桑名渡,熱田渡,間遠渡ともいう。徳川家康が1601年(慶長6)に東海道を制定したとき,尾張国宮(熱田)宿と伊勢国桑名宿の間は海上を七里渡と決め,これを官道とした。伊勢湾を陸路で迂回すると,木曾川,長良川,揖斐川の木曾三川があるためである。熱田宿築地町と桑名宿東船馬町にそれぞれ船会所があって渡船数十艘を常備するほか,潮流の関係で海辺干潟になった場合に備えて小渡船も用意していた。七里渡は通常4時間程度の船旅であるが,風雨等で海難事故も多く発生している。そこで長区間の船路を避けるため,熱田から佐屋路経由で佐屋宿まで約6里の陸路を通り,そこから船で佐屋川,木曾川を下って桑名に至る〈三里渡〉も発達した。このほか,近世中期以降になると熱田から直接伊勢国四日市を結ぶ〈十里渡〉や,三河国吉田から伊勢国大湊を結ぶ航路も利用されるようになった。
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