万場村(読み)まんばむら

日本歴史地名大系 「万場村」の解説

万場村
まんばむら

[現在地名]万場町万場

西御荷鉾にしみかぼ(一二八六・二メートル)の南、東境を気奈沢けなざわ川、西境塩沢しおざわ川が南流し、南境を東流する神流かんな川に合する。同川に並行して十石じつこく街道が通り、明治初年には町並まちなみの字名もあって両側に民家が並んでいた(郡村誌)。東は生利しようり村、西は黒田くろだ村と接する。一説では古くは神流川沿いに馬場があったため、馬場村と称したという。寛文郷帳に幕府領として村名がみえ、高一一〇石余はすべて畑方、江戸後期の御改革組合村高帳では旗本松平領。元禄七年(一六九四)検地が行われ、高一六八石余・反別五四町一反七畝余、耕地はすべて畑地、永一貫一九文の綿売出し、永二貫三三九文の漆のほか紙舟役・絹売出しなどの役銭を納めた(「山中領村鏡帳」黒沢文書)

万場村
まんばむら

[現在地名]泰阜村万場

現泰阜村の中央よりやや北に位置する。村高は正保四年(一六四七)に四一石余(信濃国絵図高辻)、元禄一五年(一七〇二)には九八石余(信濃国郷帳)に急増し、天保五年(一八三四)には一〇一石余(信濃国郷帳)となった。

大平文書に、当村に関する左の田地・被官譲渡証文がある。

万場村
まんばむら

[現在地名]大和町万場

名皿部なさらべ村の北、長良川右岸の河岸段丘上にある。馬場村とも書かれた。正和六年(一三一七)正月七日の平宗常譲状(宮内庁書陵部蔵)に「山田庄馬庭郷内為真名」がみえ、同郷は当村域を含み、白山信仰美濃馬場に由来するという。また東氏の阿千葉あちば城の馬場があったことに由来するとも伝える。真宗大谷派長徳ちようとく寺蔵の方便法身尊像裏書に、長禄元年(一四五七)二月六日「濃州郡上郡□□郷馬場□」とみえる。万場の草分と伝える七軒七社のうち、桑田一族は東氏に従って下総から来たという。

万場村
まんばむら

[現在地名]日高町万場

名色なしき村の西、神鍋かんなべ台地に位置する。天正九年(一五八一)一〇月一一日付の寺本久内判物(田中文書)に「馬庭村」とみえ、「家之おく」の「そへこへ(添越)の之地」が馬庭村のものとされている。これは山田やまた村との山境相論に対する裁許で、のち相論が再燃したが、万治三年(一六六〇)正月代官熊田角左衛門の裁定で、天正九年の裁許に基づく当村の主張が認められた。

万場村
まんばむら

[現在地名]設楽町東納庫ひがしなぐら

名倉なぐら川の右岸へ流入する市之瀬いちのせ川中流域にある。慶長八年(一六〇三)の検地では村高六六石余。幕末の戸口は一〇戸・五八人。字麦田むぎだから縄文時代の須恵器灰釉陶器・山茶碗が出土した。

同じ流域の市野瀬いちのせ村は、慶長八年の検地で村高八六石余。幕末の戸口は一三戸・九四人。また神子谷下みこがやけ村の同年の検地高は五二石余。幕末の戸口は九戸・五五人。

万場村
まんばむら

[現在地名]七宗町神渕かぶち 万場まんば

神淵川上流に沿った山間地帯、飛騨への道筋に位置する。東は葉津はづ村、南は中切なかぎり村、西は八日市ようかいち村、北は杉洞すぎほら村。神淵十郷の一つで、万場組とも称した。元禄郷帳に高一五〇石余とある。

万場村
まんばむら

[現在地名]中川区富田とみだ町万場

東は庄内川で岩塚いわつか(現中村区)に、南は長須賀ながすか村に接する宿場村。寛文一一年(一六七一)の家数一二八、人数六二五(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高九五三石余は一円蔵入地で、田は四一町八反二畝余、畑は一八町五反六畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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