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江戸時代中期の百姓一揆(いっき)。1711年(正徳1)11月、安房(あわ)国(千葉県)安房・朝夷(あさい)両郡にわたる27か村の惣百姓(そうびゃくしょう)600人は名主を中心に蓑笠(みのかさ)姿で江戸の領主屋敷へ門訴した。当時の北条(ほうじょう)藩主は屋代忠位(やしろただたか)、石高(こくだか)は1万石、北条(館山(たてやま)市内)に陣屋を置き、江戸に屋敷があった。「房州一万石村々惣百姓」の名で門訴したので万石騒動といわれる。この年の秋、新家老川井藤左衛門(かわいとうざえもん)は藩の財政難を打開するため過酷な検見(けみ)を行い、神社仏閣の木を伐(き)って売り、農繁期の百姓に労役を課し、新規運上を出させた。一揆はこれら一連の増徴策に対するもので、藩主への門訴から老中に対する駕籠訴(かごそ)へと進んだ。藩は3人の名主を斬罪(ざんざい)に処したが、幕府は屋代の領地を没収し、家老を打首、代官を追放して農民の要求を認めた。農民は刑死した名主を供養するために3体の石仏と常夜灯をつくり、やがて一揆の記録として『万石騒動日録』などが生み出された。
[深谷克己]
1711年(正徳1)に安房国(千葉県)北条藩領(現在の館山市に藩庁所在)安房・朝夷(あさい)両郡内の40ヵ村に起きた百姓一揆。藩主屋代氏の領地1万石の村々の一揆なので万石騒動と呼ばれる。北条藩では財政不如意のために新参の用人家老相談役川井藤左衛門を藩領に下向させて,代官ともども過酷な年貢増徴(前年(宝永7)の1万石の惣成に引き合わせて6000俵余の高免の年貢割付け)を行う一方,すでに幕府により廃止された酒屋糀屋(こうじや)運上金を取り立てるなど,百姓の嘆訴を拒否して搾取を強行した。藩命で出府する名主数名に,全領600人の名主・惣百姓も同行して江戸藩邸に門訴(もんそ)した。藩では一応要求をのむとみせかけて全員帰村させるや,約束をほごにして名主6人を逮捕,のちに3人を死罪,3人を追放とした。事態の急変で,再出府した惣百姓は老中へ繰り返し越訴(おつそ)して幕府評定所の裁判にもちこみ,翌年川井は打首,屋代氏は改易,百姓側は無罪をかちとった。
執筆者:山田 忠雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1711年(正徳元)安房国北条藩領27カ村におきた百姓一揆。北条藩領はおおむね1万石であったことから万石騒動という。新役人川井藤左衛門の不正な検見による年貢増徴に反対したもの。10月に大勢が北条役所に出訴するがらちがあかず,11月に600人余で江戸藩邸に門訴,さらに老中へ駕籠訴するにおよんだ。川井らは駕籠訴の事実を知ると,先に入牢させていた3人の名主を死罪に処した。この事実を百姓が追訴したため,幕府のとりあげるところとなり,百姓側が勝訴した。川井父子の死罪をはじめ諸役人が処罰され,藩主屋代忠位(ただたか)は改易された。死罪の3人の墓は万石惣中によって建立され,千葉県館山市国分に現存する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…戦国時代末期には稲村城,のち館山城に里見氏が拠り,城下町も形成され,市も開かれた。近世は天領と小藩領で,1711年(正徳1)には北条藩領で年貢の過重取立てをめぐる万石騒動が起こっている。カツオなどの遠洋漁業のほか,天保改革以来絹織物に代わって武士,商人の間で愛用された唐桟織も盛んであった。…
※「万石騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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