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「法輪寺」の意味・読み・例文・類語
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ほうりん‐じホフリン‥【法輪寺】
- [ 一 ] 奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町三井にある聖徳宗の本山。山号は妙見山。推古天皇三〇年(六二二)山背大兄王らの創建。もと法隆寺の末寺でのち興福寺一乗院に属する。伽藍(がらん)配置は法隆寺式。寺宝の薬師如来坐像は止利(とり)式の飛鳥仏。法琳寺。法林寺。三井(みい)寺。
- [ 二 ] 京都市西京区嵐山虚空蔵山町にある真言宗五智教団の寺。山号は智福山。和銅六年(七一三)行基の開創と伝えられ、初めは木上山葛井寺と称した。天長六年(八二九)道昌が虚空蔵菩薩像を安置して本尊とし、貞観一六年(八七四)現在名に改称した。陰暦三月一三日(今は四月一三日、またはその前後)に一三歳の少年少女が参詣する十三詣(まいり)の風習がある。日本三虚空蔵の一つ。嵯峨虚空蔵。
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法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]西京区嵐山虚空蔵山町
嵐山の渡月橋を見下ろす松尾山北麓虚空蔵山に位置する。智福山(もと木上山または日照山)と号し、真言宗五智教団に属する。本尊の虚空蔵菩薩は三虚空蔵の一で、古来漆器業・工芸技術の守護仏として信仰される。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔開創〕
「諸寺略記」の、孝霊天皇の皇女が常に月を詠じ、大井河(桂川)辺に居住して小社を構えたのが始まりとの説、「南法華寺古老伝」(山城名勝志)の崇神天皇の代に託宣により大和壺坂寺(現奈良県高取町)より法幢法護菩薩を勧請したとの説などがあるが、寺伝は、和銅六年(七一三)元明天皇の勅願により行基が創建したとする。「源平盛衰記」巻四〇に載せる伝承では、天平年中(七二九―七四九)の建立の後、天長六年(八二九)讃岐香川郡の人道昌僧都が師空海の教示により参籠して百ヵ日の虚空蔵法を修し、五月のある暁天に生身の虚空蔵菩薩を空中に感得、一木を刻して虚空蔵像を安置した。このとき葛井寺の称を法輪寺に改め、神護寺(現京都市右京区)において右の木像を空海自ら供養した。次いで貞観一六年(八七四)山腹をひらき、大いに堂宇を改修、その後天慶年中(九三八―九四七)に空也が参籠して洛中の貴賤に勧進し、新たに常行堂を建立したと伝える。
〔霊験所〕
「枕草子」の「寺は」の段に、「壺坂、笠置、法輪」と並び称せられ、建永元年(一二〇六)後鳥羽上皇は京都北野社とともに当寺に参詣(「百錬抄」三月二二日条)、また「梁塵秘抄」に「霊験所歌」として「何れか法輪へ参る道、内野通りの西の京」と詠まれているように、院政期にはすでに霊験所として著名であり、貴賤の参詣で隆盛していた。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]斑鳩町大字三井
三井集落の南東部にある単立寺院。法琳寺・法林寺・御井寺・三井寺の別名も諸書にみえる。山号は妙見山、本尊は十一面観音立像。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
〔創建〕
創建については二説がある。一つは「聖徳太子伝私記」などに載せる御井寺勘録寺家資財雑物等事(一名、寺家縁起)に、
<資料は省略されています>
とある一条で、もう一つは「上宮聖徳太子伝補闕記」のなかに、
<資料は省略されています>
とみえる数行である。前者は推古天皇三〇年、太子の命によって山背大兄王・由義王らが建立したといい、後者は天智天皇九年の斑鳩寺炎上の後に百済の聞(開か)法師・円明法師・下氷雑物(新物とも)らが合力して造立し、太子の妃の後裔高橋朝臣が寺務を預かったと説く。
明治後期、喜田貞吉・関野貞両博士による有名な法隆寺再建・非再建論争においても、一部この寺のことが問題になったこともあり、創建事情については不明な点が多い。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]湯津上村佐良土
佐良土の町並の北にある。正覚山と号し天台宗。本尊は釈迦如来・大日如来。貞観二年(八六〇)、円仁が関東巡錫の折、霊夢により釈迦・大日の二像を感得し、天台宗の寺を創立したとも(法輪寺略記)、文覚の開基で、紀伊那智の滝に籠って荒行した時の鈴を寺宝として伝えるともいう(下野国誌)。また文治(一一八五―九〇)頃那須資之により福原城(現大田原市)鬼門鎮後のために開創されたともいい、創建の時期や開基について諸説がある。寛元三年(一二四五)後嵯峨天皇勅願所の宣下を受け三額を賜ったとされるが現存しない。寛永一三年(一六三六)、天海の弟子宗光寺(現芳賀郡二宮町)の弁海により中興されたという。慶長一二年(一六〇七)那須資晴より寺領として佐良土村内五〇石を寄せられた(「那須資晴寄進状写」朝野旧聞藁所載法輪寺古文書)。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]土成町土成
阿讃山脈と吉野川の中間の平地にあり、田中の法輪寺と称する。正覚山菩提院と号し、高野山真言宗。本尊は釈迦如来(涅槃像)。四国霊場八十八ヵ所第九番札所。御詠歌は「大乗のひはうもとかもひるがへし転法輪のゑんとこそきけ」。寺伝によれば、空海が四国霊場を開創した際、法地ヵ谷に住んでいた白蛇が仏法を守護する善神であることを知り、白蛇山法淋寺を創建したことに始まるという。空海はまた当地の邪鬼を説法によって調伏し、釈迦如来の涅槃像をつくり堂宇を建てたと伝える。当寺北方の山麓に法林地と称する所があり、旧寺地といわれる。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]姫路市井ノ口
荒川小学校の北に位置する臨済宗妙心寺派寺院。山号は仏日山。本尊薬師如来は行基作と伝え、命越の如来と称される。平安時代に天台宗として開山、天福(一二三三―三四)頃に海石山晦蓮寺と称したと伝える。のち播磨守護赤松則祐が河野原(現上郡町)の赤松山宝林寺から雪渓を請じて禅宗宝林寺と号した。赤松氏の衰退により代わって英賀城主三木通武が享徳三年(一四五四)当寺の三町四方を安堵している(以上、天正三年「近村めぐり一歩記」智恵袋など)。天正八年(一五八〇)羽柴秀吉が三木氏の英賀城を攻略した時に当寺に立寄り、湯茶の接待を受けたことから「湯沢山茶くれん寺」の称号を与え、寺領九石を約したという(「増補播陽里翁説」同書)。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]守山区大森
字檀ノ浦にある。仏日山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝では貞観二年(八六〇)尾関勘八郎の開創と伝え、当初は正宗庵といい天台宗に属したという。室町時代のものと考えられる当寺蔵の大般若経経櫃の墨書銘に「尾張国山田庄内大森郷正宗庵」とあり、中世は正宗庵と号した。その頃は字元郷の東端にあったといわれている。天文三年(一五三四)雲興寺(現瀬戸市)の七世大雲永瑞が中興開山となって曹洞宗に改宗し、普香山正法寺と改号したという。
小牧・長久手の戦の兵火によって荒廃し、一時無住となったが、寛文年間(一六六一―七三)僧澄然が村民と語らって現在地に移し再興したというが、「寛文覚書」に「普香山正法寺 寺内壱反六畝拾壱歩 備前検除」とあり、現在地に移ったのは天文三年の改号の時かもしれない。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]菊川町大字七見
六万坊山南東の枝峰中ノ峰の中腹にあり、高野山真言宗。国護山と号し、本尊は虚空蔵菩薩。
寺伝によれば、開祖は善光坊高覚で、建暦二年(一二一二)七見の中ノ峰に堂宇を建立し、虚空蔵菩薩を安置し国護山国正院と称したのに始まる。
本尊虚空蔵菩薩は、天長年間(八二四―八三四)に山城国嵯峨法輪寺(現京都市西京区)の道昌が衣の上に菩薩の降臨を感じて三体彫造し、衣を三分し各像におさめたというその一体で、奥州の一体と嵯峨法輪寺の一体を合わせて日本三虚空蔵と称する。正安年間(一二九九―一三〇二)野火の厄火に遭い、堂宇宝塔ことごとく焼亡し、鎮守の天神小社とともに現在地に再建奉安したと伝える。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]甲府市丸の内三丁目
国道五二号(旧甲州道中)北側にある。光明山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は薬師如来。鎌倉時代初期の武将武田有義(法輪寺殿)を開基とし、京都嵯峨(現京都市右京区)の法輪寺を模して横沢邑に建立され、転法輪と号し、薬師像を安置した(甲斐国志)。創建時には天台宗であったが、文禄二年(一五九三)西青沼の現在地に移り、大覚禅師が開祖となって臨済宗妙心寺派に改宗、中興開山は月舟という。慶長八年(一六〇三)飯田村内三九二坪の寺地寄進の徳川氏四奉行の判物を与えられた。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]古宇郡泊村大字泊村
泊地区の旧フルウ場所モエレトマリ番屋元、旧字山之上にある。瑞龍山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。一八六二年(文久二年)八月松前龍雲院(のち本寺となる)などによる蝦夷地への末寺建立願が幕府寺社奉行より許容され(「木村時義御用留」北海道大学附属図書館蔵)、開創となった。寺院の地所は箱館奉行所よりの割渡しとされ、ヲタスツ詰支配調役長谷川儀三郎が執行。建立の背景に鰊漁で繁栄する西蝦夷地南部の状況があった。教団における寺号許可は一八六四年(元治元年)九月(「同役衆進達留」国会図書館蔵)。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]田辺市新屋敷町
旧田辺町の南東端にある。曹洞宗で、山号撃鼓山、本尊聖観音。田辺藩古記録(宇井文書)所収の寛文六年(一六六六)の田辺領寺院書上によると、徳川家家臣大須賀五郎兵衛が遠江国森に開いた自庵をその始まりとし、大須賀氏に仕えた西郷孫兵衛が徳川頼宣の紀州入国に伴い与力として田辺に来住、庵を当所に引移したといい、当初浄土宗の僧が住持となったが、のち禅僧が住して以後禅宗となったとしている。
法輪寺
ほうりんじ
[現在地名]上京区行衛町
臨済宗妙心寺派。大宝山と号し、本尊は釈迦如来。三国一を称する起上り達磨を中心に八千余体の達磨が諸願成就のため奉納され、達磨寺ともよばれる。寺伝は享保一二年(一七二七)万海の開基とし、「坊目誌」は同一五年とする。方丈の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出した庭がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
法輪寺(奈良県)
ほうりんじ
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町三井(みい)にある寺。明治時代は真言(しんごん)宗東寺末であったが、現在は聖徳(しょうとく)宗に属する。妙見山(みょうけんざん)と号し、法琳寺、法林寺とも書き、三井寺(みいでら)、御井寺とも称する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。622年(推古天皇30)聖徳太子の病気平癒祈願のため山背大兄王(やましろのおおえのおう)などが建立を発願し、天武(てんむ)朝にかけて徐々に伽藍(がらん)を整えたと伝えるが、他説では670年(天智天皇9)法隆寺の焼亡後に造立されたともいう。法隆寺式伽藍配置で、規模は法隆寺の3分の2にあたるといわれる。1645年(正保2)台風により諸堂宇が倒壊、江戸中期に復興され、現在、金堂、講堂(収蔵庫を兼ねる)、三重塔、妙見堂、鐘楼などが建つ。三重塔は、法隆寺五重塔、法起(ほっき)寺三重塔とともに斑鳩の3名塔の一つに数えられたが、1944年(昭和19)雷火で焼失、75年(昭和50)に再興された。寺宝には、飛鳥(あすか)時代の木造薬師如来坐像(ざぞう)(もと金堂本尊)、木造虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)立像(もと金堂安置)、平安前期の木造十一面観音(かんのん)立像(もと講堂本尊)、平安後期の木造聖(しょう)観音立像、多宝塔文磬(もんけい)などが国重要文化財に指定されている。
[里道徳雄]
法輪寺(京都市)
ほうりんじ
京都市西京(にしきょう)区嵐山虚空蔵山(あらしやまこくぞうやま)町にある寺。真言(しんごん)宗五智(ごち)教団の本山。智福山と号し、通称嵯峨(さが)虚空蔵で親しまれている。本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)。713年(和銅6)に元明(げんめい)天皇の勅願により行基(ぎょうき)が開創したといわれ、当時は木上山(もくしょうざん)(あるいは日照山)葛井寺(ふじいでら)と称した。当寺の虚空蔵菩薩は、829年(天長6)に中興道昌(どうしょう)が100日修法の満願の日に井戸水を汲(く)もうとしたら井戸から虚空蔵菩薩が出現し、その姿を道昌が模し、空海が開眼供養を行ったものという。1597年(慶長2)後陽成(ごようぜい)天皇の勅願により再建事業が開始され、1606年に落慶。このとき現在の山号に改めた。1864年(元治1)の蛤(はまぐり)御門の変で堂宇の大半が焼亡し、明治・大正期に現在の寺観が整備された。本尊の虚空蔵菩薩は日本三大虚空蔵の一つ。13日は虚空蔵菩薩の縁日であるが、3月13~5月13日の十三参りには、京洛(きょうらく)の13歳になった男女が盛装して虚空蔵菩薩の智慧(ちえ)と福徳を授けてもらうために参詣(さんけい)する。寺宝の木造の持国天立像、多聞天立像は国の重要文化財。
[祖父江章子]
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法輪寺 (ほうりんじ)
京都市西京区にある真言宗の寺。山号は智福山。嵐山山麓の景勝の地にある。俗称の〈嵯峨虚空蔵〉で有名。寺伝によれば,713年(和銅6)行基の開創と伝え,もと葛井(かどい)寺といったが,874年(貞観16)僧道昌が中興し,虚空蔵菩薩を安置して現在の寺号に改めた。中世末には寺運が衰微したが,江戸時代に寺領50石,ほかに諸方の勧進や開帳で浄財を集めて堂宇を整備した。だが幕末の禁門の変で戦場となって焼失,現堂宇の大部分は明治・大正期の再建。本尊虚空蔵は日本三虚空蔵の一つといわれ,霊験は早くから世に名高く,毎年3月13日,13歳の男女が虚空蔵から知恵を授かるため参詣する〈十三参り〉が,江戸中期から京都の庶民社会に定着し,今日に続いている。
執筆者:藤井 学
法輪寺 (ほうりんじ)
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の寺。山号は妙見山。〈寺家縁起〉は,聖徳太子の命により子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)らが建立と記すが,創建事情は不明な点が多い。発掘により創建時の伽藍は,金堂と塔を東西に配する法隆寺と同様の配置であったことが判明。寺運は平安期に隆盛したが,中世には傾き,1645年(正保2)の大風で金堂,講堂が倒壊(江戸中期復興)。1944年には雷火で三重塔が焼失(現存の塔は75年復元再興)。寺宝には薬師如来座像,虚空蔵菩薩立像(ともに7世紀末ごろ),十一面観音立像(平安時代,金堂本尊)など。秘伝妙見菩薩を安置する妙見堂の存在は,当寺の信仰の重要な一面を示す。
執筆者:上田 敬二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
法輪寺
ほうりんじ
三井(みい)寺・御井寺・法琳寺とも。奈良県斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の寺。妙見山と号す。622年(推古30)聖徳太子の病気が治るよう祈願し,子の山背大兄(やましろのおおえ)王らが発願したとする説などがある。法隆寺式伽藍配置をもっていたが,1645年(正保2)大風で金堂・講堂などが倒壊し,三重塔も1944年(昭和19)落雷で焼失した。寺宝の飛鳥時代の木造薬師如来坐像・木造虚空蔵(こくうぞう)菩薩立像や,平安前期の木造十一面観音立像は,ともに重文。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
法輪寺【ほうりんじ】
奈良県斑鳩(いかるが)町三井にある聖徳宗の寺。御井寺,法琳寺とも。飛鳥時代,聖徳太子の妃膳氏などの創立と伝えるが未詳。飛鳥様式を伝えた創建時代の三重塔は1944年雷火で焼失した。本尊の木造薬師如来座像と木造虚空蔵菩薩立像は飛鳥時代,木造十一面観音立像は像高3.6mの一木造で平安時代の作。
→関連項目斑鳩[町]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
法輪寺
ほうりんじ
①奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある寺
②京都市西京区嵐山,大堰川右岸中腹にある真言宗御室派の寺
聖徳太子の子山背大兄王らが創建した寺との説があり,白鳳時代に建立。法隆寺と同様の伽藍 (がらん) 配置であった。1944年三重塔が雷火により焼失,'75年再建された。
行基創建,空海再建と伝える。智慧を授けるという『虚空蔵菩薩』を祭る。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
法輪寺
ほうりんじ
奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町に,聖徳太子の病気平癒を祈願して建てられた寺。法琳寺,三井寺,御井寺ともいい,真言宗東寺派に属していたこともあるが,現在は聖徳宗に属する。本尊の薬師仏と虚空蔵菩薩像は飛鳥時代のもの。講堂の十一面観音は平安時代のもの。
法輪寺
ほうりんじ
京都市西京区嵐山にある真言宗御室派の寺。行基の創建,空海によって再興と伝えられる。俗に嵯峨虚空蔵といわれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
法輪寺
徳島県阿波市にある高野山真言宗の寺院。山号は正覚山、院号は菩提院。本尊は涅槃釈迦如来。四国八十八ヶ所霊場第9番札所。地元では「田中の法輪さん」と呼ばれる。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
法輪寺 (ホウリンジ)
学名:Prunus lannesiana
植物。バラ科の落葉高木
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の法輪寺の言及
【サクラ(桜)】より
…御車返し(みくるまがえし)は一重の花と旗弁をもった6~8枚の花弁がある花が,同じ木に混じって咲くので〈八重一重〉ともいわれている。法輪寺や福禄寿,楊貴妃(ようきひ)などは花弁が15~20枚ある淡紅色大輪の花が咲く。公園によく植栽されている関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)には花弁が30枚内外ある大きな花が咲き,これらの花を塩漬にしたものは桜湯に使われている。…
【嵐山】より
…古生層からなり,標高375m。山頂には中世の嵐山城跡,東麓には嵯峨の虚空蔵さんといわれる法輪寺,北麓には角倉了以の木像を安置する大悲閣がある。対岸とは渡月橋で結ばれており,一帯は1927年に史跡・名勝に指定された。…
※「法輪寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」