三岳城跡(読み)みたけじようあと

日本歴史地名大系 「三岳城跡」の解説

三岳城跡
みたけじようあと

[現在地名]引佐町三岳・川名

三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷いいのや井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは井伊城ともいう。築城年代は定かでないが、建武の新政の瓦解に伴い南北朝の内乱が始まると、井伊氏は南朝方につき、建武三年(延元元年、一三三六)九月下旬には「井責」(井伊城攻め)攻防で美差大郎が中条殿を討取っている(「瑠璃山年録残編裏書」大福寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「三岳城跡」の解説

みたけじょうあと【三岳城跡】


静岡県浜松市北区引佐町にある城跡。標高466mの三岳山頂に残る山城で、鎌倉時代後期からこの地を治めていた豪族、井伊氏の本城跡である。南北朝時代の1339年(延元4・暦応2)、南朝に属していた井伊氏は後醍醐(ごだいご)天皇の皇子、宗良(むねよし)親王をこの三岳城に迎え、親王とともに南朝復興を画策する。しかし状況は好転せず、翌年、高師泰(こうのもろやす)と仁木義長(にきよしなが)が率いる北朝足利軍の攻撃によって落城し、親王は大平(おいだいら)城に逃れた。時を経て、1514年(永正11)、井伊氏は三岳城にこもって再び今川氏に対して兵を挙げるが、今川氏親(うじちか)の将、朝比奈泰以(あさひなやすもち)に攻撃されて城は再び落城し、以降、井伊氏は今川氏の配下となった。現在、出丸が築かれていた三岳神社付近まで車で行くことができ、そこから山頂への途中には桝形(ますがた)門跡や石塁、堀切りが確認できる。山頂は東西10m、南北20mの平場となっていて本丸があり、周囲には空堀や土塁が残っている。1944年(昭和19)に国の史跡に指定された。天竜浜名湖鉄道金指駅から遠鉄バス「井伊谷」下車、徒歩約1時間20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android