三島通良(読み)みしまみちよし

改訂新版 世界大百科事典 「三島通良」の意味・わかりやすい解説

三島通良 (みしまみちよし)
生没年:1866-1925(慶応2-大正14)

明治・大正期の医者であり,学校衛生(学校保健)の創設者。武蔵入間郡霞関村(現,川越市)に生まれる。1889年帝国大学医科大学を卒業,大学院に入り小児科学を専攻するとともに学校衛生に関心をもつ。91年文部省からの委嘱により,学校衛生の調査をまず九州と東北地方から開始した。調査は授業と学科時間,就学年齢のほか,学校立地,校舎の構造(採光,換気),飲料水,便所,さらに机,腰掛け,教科書の活字の大きさ等に及び,近視や脊椎側彎(そくわん)症の関係が調査され,全体としてその劣悪さが指摘され,改善の指針を示した。同年《学校衛生学》を著し,日本で初めて欧米の学問内容が紹介され方向づけがなされた。96年文部省に学校衛生顧問および学校衛生主事がおかれ,その主事に就任,東京高等師範学校教授を兼ねた。1903年学校衛生研究のため欧米に出張,翌年帰国したが,行政整理により機構が変わり退官し,一時医院を開業。しかし11年から再び学校衛生研究に復帰した。著書には《学校児童発育調査報告書》《ははのつとめ》《救世痘病学》《母子衛生法の改良》など多数がある。
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20世紀日本人名事典 「三島通良」の解説

三島 通良
ミシマ ミチヨシ

明治・大正期の衛生学者



生年
慶応2年6月6日(1866年)

没年
大正14(1925)年3月9日

出生地
武蔵国入間郡霞関村笠幡(埼玉県)

別名
号=静堂

学歴〔年〕
帝国大学医科大学〔明治22年〕卒,東京帝大大学院小児科学専攻

学位〔年〕
医学博士〔明治35年〕

経歴
明治24年文部省より学校衛生調査を嘱託され、全国の学校を巡回。29年文部省学校衛生主事となり、東京高師教授を兼ねる。33年学校衛生課長、36年欧米に留学し学校衛生等を研究、翌37年帰国。38年退官し、東京・麴町に三島医院を開業するが、44年に廃業し、以後学校衛生の研究に専念した。また帝国痘菌院を設立して痘菌の供給と種痘術の普及に尽力した。学校衛生の生みの親であり、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明など多大な功績を残した。著書に「ははのつとめ」「救世痘病学」「学校衛生学」「室内体育」「日本小児発育一覧表」「中等生理衛生教科書」など多数。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三島通良」の解説

三島通良 みしま-みちよし

1866-1925 明治-大正時代の医学者。
慶応2年6月6日生まれ。文部省の委嘱で,全国の学校の保健衛生の実態を調査。明治29年文部省学校衛生主事,高等師範教授となる。日本の学校衛生の生みの親。また帝国痘苗院をおこし,三島式種痘法をひろめた。大正14年3月9日死去。60歳。武蔵(むさし)入間郡(埼玉県)出身。帝国大学卒。著作に「学校衛生学」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三島通良」の意味・わかりやすい解説

三島通良
みしまみちよし

[生]慶応2(1866).川越
[没]1925.3.9.
医師。学校衛生の創始者。 1889年帝国大学医科大学卒業。文部省に入り,92年,衛生主事として小学校の机,椅子の寸法を定めるために体格検査を実施,98年学校衛生取調嘱託となり全国の学校衛生の調査に着手,96年文部省総務局学校衛生課主事。 1903年ヨーロッパ,アメリカの実情を視察。東京高等師範学校で学校衛生学を講義した。

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367日誕生日大事典 「三島通良」の解説

三島 通良 (みしま みちよし)

生年月日:1866年6月6日
明治時代;大正時代の医師
1925年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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