三河国(愛知県東部)で織られた木綿布をいう。生地の白木綿が主である。三河は現在確認される国産木綿の産地の中で最も古い国の一つ。《日本後紀》によると799年(延暦18)当地に漂着した崑崙人自称天竺人が綿種をもたらしたが,これは定着せず中絶したらしい。しかし700年後の1510年(永正7)には奈良で三河木綿の名が見えるのをはじめ,京都の貴族にも贈答品とされるなど,特産品としての名をはせている。
江戸初期のことは不確実だが,徳川家康が三河の出であったことから,江戸大伝馬町の木綿問屋も三河出身者に開かせたとの伝承もある。また17世紀中ごろに三河矢作(やはぎ)の商人が同地方の木綿を買い集め,江戸に送るルートが確立したともいう。17世紀後半には西三河矢作川下流域の碧海,幡豆,額田3郡に多くの綿作地が確認され,東海道池鯉鮒(知立)(ちりゆう)宿には見本市も立っている。しかし生産品の大部分は江戸市場に回送された。その取引系統は,生産地から棒手振(ぼてふり)とよばれた仲買が買いつけ農村の買次商にもちこむ。それを西尾,荻原,矢作,岡崎の木綿問屋に集め,平坂(へいさか),大浜,鷲津湊から江戸に廻船し,大伝馬町木綿問屋で販売した。江戸後期に至っても三河は小領主が多く藩の権力を背景とする特権商人が生まれず,流通規制もさほど厳しくなかった。そのため専業化も進まず,木綿機業のマニュファクチュアへの発展も見られなかった。なお品質の面では,江戸中期の《和漢三才図会》によると伊勢松坂,河内のものより劣り,〈中〉という評価を与えられている。明治以降は1877年ころ,実綿生産量では摂津,河内とほぼ同量の700万斤強で全国のトップクラスであった。しかし明治20年代以降は,中国綿,インド綿の大量輸入により栽培は急速に衰えた。それとともに織物の種類も従来の白木綿から縞(しま)木綿にかわり,生産の中心地も西三河から東三河蒲郡(がまごおり),三谷(みや)地方に移っていった。
執筆者:瀬田 勝哉 江戸市場ではのれん地,印絆天(しるしばんてん)地,足袋(たび)地が好評であったが,明治になってからは関東地方のほか長野,秋田,青森へ出荷し,製品も蒲団縞,綿英ネル,子供服地,変り綾生地綿布,別珍織物,カーテン地,ダック地(ゴム加工用)など多様な製品を生み出してきた。
執筆者:林 英夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
三河国(愛知県)でつくられる綿布のこと。この地方では、江戸時代から綿の栽培が行われていたが、これでつくった綿布を三河木綿といって売り出すようになったのは明治に入ってからのことといわれる。愛知県宝飯(ほい)郡三谷(みや)町(現蒲郡(がまごおり)市)を中心とする地方で行われたのが、その初めといわれる。帯芯(おびしん)、足袋(たび)底、半纏(はんてん)、のれん、酒漉(こ)し袋などに用いられる地厚の白生地(きじ)が多い。とくに岡崎地方の三白(さんぱく)または三白木綿(三河白木綿の略)といわれる半纏、ももひきは有名である。
[山辺知行]
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」事典 日本の地域ブランド・名産品について 情報
…岡崎藩をはじめ周辺の藩兵の出動によって鎮圧されたが,当時の徳川斉昭,水野忠邦ら幕閣の首脳に大きな衝撃を与えた。
[産業,交通,文化]
代表的な産業としては,西三河で三河木綿がある。綿はとくに矢作川下流の平野部畑地を中心に早くから栽培が行われ,戦国末には京都に一部送られていたが,江戸開府とともに江戸へ送られた。…
※「三河木綿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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