三浦乾也(読み)ミウラケンヤ

デジタル大辞泉 「三浦乾也」の意味・読み・例文・類語

みうら‐けんや【三浦乾也】

[1821~1889]江戸末期から明治初期の陶工。江戸の人。号、天禄堂。乾也焼を創始。また、破笠はりつ細工にもすぐれ、その手法を応用したかんざしこうがいなどのたま乾也玉とよばれて人気を博した。船・ガラスなども製造

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精選版 日本国語大辞典 「三浦乾也」の意味・読み・例文・類語

みうら‐けんや【三浦乾也】

江戸末期・明治初期の陶工。江戸の人。号、天祿堂。東京向島に開窯、尾形乾山風の雅陶は乾也焼として賞せられた。また、「乾也玉」と呼ばれる根掛けやかんざしを作った。文政四~明治二二年(一八二一‐八九

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦乾也」の意味・わかりやすい解説

三浦乾也 (みうらけんや)
生没年:1825-89(文政8-明治22)

明治初期の陶工。江戸に生まれる。1820年(文政3)生れともいう。通称は陶蔵。天禄堂と号した。はじめ器械を製造していたが,黒船来航に衝撃をうけ長崎で造船術を学び,仙台藩の軍艦回成丸造船にたずさわった。1875年江戸向島の長命寺境内で製陶をおこない,漆工家小川破笠(はりつ)の破笠細工にならった,きわめて小さな動植物を製陶したり,乾也玉と好評を博した根掛(ねがけ)や簪(かんざし)など髪飾の球を焼いた。しかし最も特色を示したのは尾形乾山の画風と陶法を慕って作陶したことにある。代表作として,漆塗板に陶製浮彫をはめこんだ《鵞鳥図額》(東京国立博物館)があげられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦乾也」の意味・わかりやすい解説

三浦乾也
みうらけんや
(1821―1889)

江戸末期から明治の江戸の陶工。幼名は藤太郎。初めて将軍上覧の「席焼」の栄誉を受けた伯父の井田吉六(きちろく)に陶法を学び、また、西村藐庵(みゃくあん)から尾形乾山(けんざん)の陶技を伝授されて自ら6世乾山を名のり、天禄堂(てんろくどう)を号した。さらに絵を谷文晁(ぶんちょう)、蒔絵(まきえ)を寛次郎に学び、小川破笠(はりつ)の遺法に従って漆器へ陶器を嵌入(かんにゅう)する加飾法を考案した。この精巧な破笠細工のほか、乾山を手本とした雅趣に富む絵付陶をはじめ、彫塑、装身具(乾也珠(だま))など広い作域をこなした。1875年(明治8)深川から向島(むこうじま)長命寺へ移り晩年を送ったが、ほかにも神奈川県小田原(おだわら)、埼玉県飯能(はんのう)に窯(かま)を築いており、また宮城県塩竈(しおがま)に造船所をおこし、東京で初めてガラスを焼くなど、文明開化期の才人でもあった。代表作に『鵞鳥(がちょう)図額』(東京国立博物館)がある。

[矢部良明]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦乾也」の解説

三浦乾也 みうら-けんや

1821-1889 幕末-明治時代の陶工。
文政4年3月3日生まれ。伯父井田吉六に陶法をまなぶ。西村藐庵(みゃくあん)から乾山(けんざん)伝書をゆずられ,乾山6代を称した。破笠(はりつ)細工で有名。幕命により長崎で造船術をまなび,安政4年(1857)仙台藩で洋式軍艦開成丸を建造。ほかに碍子(がいし),煉瓦(れんが)の製造など開明期に多彩な活躍をした。明治22年10月7日死去。69歳。江戸出身。号は天禄(てんろく)堂。

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