三浦義澄(読み)ミウラヨシズミ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦義澄」の意味・わかりやすい解説

三浦義澄
みうらよしずみ
(1127―1200)

鎌倉初期の武将。義明(よしあき)の子。幼名荒次郎。三浦介(すけ)。相模(さがみ)国守護。1180年(治承4)畠山重忠(はたけやましげただ)・河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長らに攻められて本拠地三浦の衣笠(きぬがさ)城(神奈川県横須賀市)が落城した後、父の命で安房(あわ)に渡り源頼朝(よりとも)をたすけた。84年(元暦1)源範頼(のりより)に従って平氏を追討し、壇(だん)ノ浦(うら)の戦いや奥州征伐などにも従軍して戦功をたてたのをはじめ、頼朝が征夷(せいい)大将軍となった92年(建久3)にはその除書(じしょ)(任命書)を鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)社頭で受ける大任を果たした。頼朝が三浦氏を厚く処遇したことが知れる。99年(正治1)訴訟の裁決に将軍頼家の直裁をとどめ合議制となったとき、宿老としてその一員に選ばれた。同年末には諸将とともに梶原景時(かじわらかげとき)を鎌倉から追放した。翌正治(しょうじ)2年1月23日没。

[三浦勝男]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦義澄」の解説

三浦義澄
みうらよしずみ

1127~1200.1.23

平安後期~鎌倉前期の武将。三浦介・相模国守護。父は三浦大介(おおすけ)義明。通称荒次郎。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に応じて,父とともに衣笠城(神奈川県横須賀市)で旗あげするが,豪雨で到着が遅れ,頼朝は石橋山で敗れた。帰路,畠山氏に襲われ父を失うが,海路安房に渡って頼朝と合流。84年(元暦元)源範頼の平氏追討軍に加わり,壇ノ浦の戦で戦功をあげた。奥州合戦でも活躍し,頼朝の死後も宿老の1人として幕府を支えた。将軍源頼家の親裁をやめて13人の合議制がしかれたときもその一員となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦義澄」の意味・わかりやすい解説

三浦義澄
みうらよしずみ

[生]大治2(1127)
[没]正治2(1200).1.23.
平安時代末期~鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の御家人。通称,矢部次郎。義明の次男。三浦介。源頼朝に仕え,治承4 (1180) 年頼朝の挙兵以来戦功を重ねた。元暦1 (84) 年源範頼の指揮下に鎌倉を発し,文治1 (85) 年壇ノ浦の平氏滅亡まで海陸で戦闘に従事した。同5年奥州藤原氏征討にも参加。相模国守護として,また大族三浦氏の首長として幕府内で重んじられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦義澄」の解説

三浦義澄 みうら-よしずみ

1127-1200 平安後期-鎌倉時代の武将。
大治(だいじ)2年生まれ。三浦義明の次男。相模(さがみ)(神奈川県)三浦郡の住人。三浦介の称をつぐ。源頼朝の挙兵に初期からくわわり,壇ノ浦の戦い,奥州藤原攻めに活躍。幕府重臣の地位をしめ,頼朝の没後は宿老13人のひとりとなった。相模守護。正治(しょうじ)2年1月23日死去。74歳。幼名は荒次郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三浦義澄」の解説

三浦義澄
みうらよしずみ

1127〜1200
鎌倉初期の武将
義明の子。三浦介 (みうらのすけ) という。1180年源頼朝の挙兵に応じて立ったが敗れ,安房に渡って頼朝に従う。平家追討軍にあって壇の浦の戦いに功あり,のち鎌倉幕府の重臣となった。

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