(高橋秀樹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
鎌倉初期の武将。義明(よしあき)の子。幼名荒次郎。三浦介(すけ)。相模(さがみ)国守護。1180年(治承4)畠山重忠(はたけやましげただ)・河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長らに攻められて本拠地三浦の衣笠(きぬがさ)城(神奈川県横須賀市)が落城した後、父の命で安房(あわ)に渡り源頼朝(よりとも)をたすけた。84年(元暦1)源範頼(のりより)に従って平氏を追討し、壇(だん)ノ浦(うら)の戦いや奥州征伐などにも従軍して戦功をたてたのをはじめ、頼朝が征夷(せいい)大将軍となった92年(建久3)にはその除書(じしょ)(任命書)を鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)社頭で受ける大任を果たした。頼朝が三浦氏を厚く処遇したことが知れる。99年(正治1)訴訟の裁決に将軍頼家の直裁をとどめ合議制となったとき、宿老としてその一員に選ばれた。同年末には諸将とともに梶原景時(かじわらかげとき)を鎌倉から追放した。翌正治(しょうじ)2年1月23日没。
[三浦勝男]
1127~1200.1.23
平安後期~鎌倉前期の武将。三浦介・相模国守護。父は三浦大介(おおすけ)義明。通称荒次郎。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に応じて,父とともに衣笠城(神奈川県横須賀市)で旗あげするが,豪雨で到着が遅れ,頼朝は石橋山で敗れた。帰路,畠山氏に襲われ父を失うが,海路安房に渡って頼朝と合流。84年(元暦元)源範頼の平氏追討軍に加わり,壇ノ浦の戦で戦功をあげた。奥州合戦でも活躍し,頼朝の死後も宿老の1人として幕府を支えた。将軍源頼家の親裁をやめて13人の合議制がしかれたときもその一員となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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