日本歴史地名大系 「三軒町」の解説 三軒町さんけんちよう 京都市:上京区仁和学区三軒町上京区七本松通一条下ル町の北西から南東に中立売(なかたちうり)通が通り、東は六軒町(ろつけんちよう)通。平安京大内裏の「大蔵省」から「兵庫寮」の跡地で、北は一条大路(いちじようおおじ)となっている(「拾芥抄」宮城指図)。現町名は明治二年(一八六九)一月、松下三軒町・久保町・野山ノ辻子・崇禅寺前町・東裏屋敷の各字地を合併して成立した(坊目誌)。元禄末期洛中絵図は町の東側を「久保丁」、西側を「松下三軒丁」と記すが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「此町北側に引こみたる所を野山、俗に長山と云」とある。 三軒町さんげんちよう 茨城県:水戸市水戸城下下町三軒町[現在地名]水戸市城東(じようとう)一丁目東は一(いち)ノ町。南には千波(せんば)湖に続く沼があり、この沼は明星(みようじよう)ヶ池といい、また亀(かめ)ヶ池・野中(のなか)の池ともいう。当町は三軒屋敷ともいい、荒神見付(あらがみみつけ)前から城堀に沿い、浮新(うきしん)町へ出る片側町である。「水府地理温故録」は「通路の名也」と記す。初めは三浦氏の屋敷、次いで寛永一〇年(一六三三)から天和―貞享(一六八一―八八)頃までこの地を含めて山野辺氏の屋敷、のち寛政九年(一七九七)頃には野中・村島・五百城の三氏の屋敷があったため三軒屋敷または三軒町という。 三軒町さんげんちよう 京都市:下京区豊園学区三軒町下京区高辻通東洞院東入東西に通る高辻(たかつじ)通(旧高辻小路)に南面する片側町。平安京の条坊では、左京五条四坊二保三町の南側の地。寛永一四年(一六三七)洛中絵図では「新町」と記し、寛文五年(一六六五)刊「京雀」では「藪ノ下新町」とみえる。寛文末期洛中洛外大図では「高橋町ノしりや」とよばれる。宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図では「三家丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「三間町 元三軒町と書也」と現町名がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by