デジタル大辞泉
「三遊亭円楽」の意味・読み・例文・類語
さんゆうてい‐えんらく〔サンイウテイヱンラク〕【三遊亭円楽】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
三遊亭 円楽(5代目)
サンユウテイ エンラク
- 職業
- 落語家
- 本名
- 吉河 寛海(ヨシカワ ヒロウミ)
- 生年月日
- 昭和8年 1月3日
- 出生地
- 東京都 台東区浅草
- 学歴
- 杉戸農中退
- 経歴
- 生家は東京・浅草の易行院助六寺で、9人きょうだいの四男。昭和30年6代目三遊亭円生に入門して全生。33年二ツ目となり、37年29歳で5代目円楽を襲名して真打ちに昇進。2代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(没後は8代目橘家円蔵)、立川談志と“四天王”と呼ばれ、次代の落語界を担う逸材と目された。42年にスタートしたテレビ演芸番組「笑点」の大喜利コーナーに初代メンバーとして出演、端整な顔立ちから“星の王子様”“湯上がりの男”を自称し、人気を博した。43年にはドラマ「笑ってよいしょ」に主演、博識でもあり、バラエティ番組などにも積極的に出演して噺家タレントブームを牽引したが、52年師匠の言葉に従い落語に専念するため、「笑点」を含むレギュラー番組全てを降板。53年師匠が真打ち昇進制度を巡って落語協会執行部と対立し協会脱会を表明すると、総領弟子として“協会に残って弟弟子の面倒を見てくれ”という師匠に“師匠の芸が好きで噺家になったのだから師匠について行きます”と答え、落語三遊協会結成に参加。59年師匠急逝により弟弟子が落語協会に復帰する中、55年自身は直弟子と大日本落語すみれ会を結成し協会へは戻らず、独自の道をとった。60年落語円楽党、平成2年円楽一門会と改称。寄席には出演できないため、昭和60年私財を投じて寄席ビル・若竹を建設したが、平成元年には閉鎖。この間、昭和57年「笑点」大喜利コーナーの司会者を務めていた三波伸介の急逝により、58年4代目司会者として「笑点」に復帰。桂歌丸や弟子の三遊亭楽太郎に馬面を揶揄されるやりとりや、“山田君、例のものを皆さんに配ってください”“山田君、座布団全部持っていきなさい”“と、いったところで「笑点」はお開き、また来週のお楽しみ、ありがとうございました”といったおなじみの台詞で“日曜日夕方の顔”として定着。テレビと落語を結びつけた功労者で、最も知名度のある落語家の一人となった。平成17年落語協会からの脱会騒動以来、27年ぶりに寄席に登場したが、同年脳梗塞に倒れ、18年4月には23年間務めてきた「笑点」大喜利コーナーの司会を退く。19年2月国立名人会で十八番の「芝浜」を演じたが、高座の出来に満足できず、引退を表明。同年3月日本テレビ系「いつみても波瀾万丈」を最後にテレビ出演も引退した。晩年は胃がんや肺がんも患い、21年76歳で亡くなった。「中村仲蔵」「浜野矩随」など、繊細な描写の人情話や教訓話を得意とした。弟子に三遊亭鳳楽や、「笑点」大喜利メンバーである楽太郎、三遊亭好楽らがいる。著書に「円楽、親父を叱る」などがある。戦国大名・毛利家の家臣で、鳥取城防衛で有名な吉川経家の末裔を称した。
- 受賞
- 旭日小綬章〔平成19年〕 芸術祭賞優秀賞〔昭和52年〕「藪入り」,放送演芸大賞〔昭和54年〕,特別功労賞〔昭和60年〕,芸術祭賞〔昭和63年〕,浅草芸能大賞〔平成18年〕
- 没年月日
- 平成21年 10月29日 (2009年)
- 伝記
- 戦後落語史秘宝耳江戸前の男―春風亭柳朝一代記昭和・平成タレント太平記―私をトリコにした男たち地球のでこぼこ〈2〉とうようズ・ブルース町づくり市民夢日記―下町トレンドが日本をかえるだろう!阿佐田哲也の怪しい交遊録落語長屋の知恵雨彦のにんげん四季報 吉川 潮 著ナンシー関 著吉川 潮 著林家 木久蔵 著中村 とうよう 著日野 仁彦 著阿佐田 哲也 著矢野 誠一 著青木 雨彦 著(発行元 新潮社朝日新聞社新潮社学習研究社話の特集徳間書店実業之日本社青蛙房講談社 ’09’02’99’91’89’88’88’86’86発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
三遊亭円楽(5世)
さんゆうていえんらく[ごせい]
[生]1933.1.3. 東京
[没]2009.10.29. 東京
落語家。本名吉河寛海。1955年 6世三遊亭円生に入門,三遊亭全生となる。1958年二つ目に昇進。1962年真打ちに昇進し,5世三遊亭円楽を襲名。1966年テレビ番組『笑点』(日本テレビ放送網系)に,その前番組『金曜夜席』時代から大喜利解答者としてレギュラー出演,「星の王子様」のキャッチフレーズで人気を博す。1977年落語に専念するため『笑点』を降板。1978年円生が落語協会を脱会し落語三遊協会を設立。円楽もこれに従う。翌 1979年円生が没し落語三遊協会は解散,円楽一門以外は落語協会に戻ったが,円楽一門だけは大日本すみれ落語会(のちに落語円楽党,今日の五代目円楽一門会)を結成し活動する。1985年東京都江東区に寄席若竹を建てる(1989閉鎖)。その間,『笑点』に復帰し司会者に就任。2007年現役引退。円楽一門は寄席をもたない団体のため地方での独演会が多いが,そこで得意の人情噺が冴え,『浜野矩随』『芝浜』『中村仲蔵』などではみずからも涙を流して熱演,観客の涙を誘った。円楽亡きあとも三遊亭鳳楽,三遊亭好楽,6世三遊亭円楽らが一門をまとめて活動している。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
三遊亭円楽(5代) さんゆうてい-えんらく
1933-2009 昭和後期-平成時代の落語家。
昭和8年1月3日生まれ。昭和30年6代三遊亭円生に入門,全生を名のる。37年5代円楽を襲名して真打。53年師とともに落語協会を脱退して落語三遊協会を結成。師の没後も落語協会に復帰せず,すみれ会(のち円楽党,円楽一門)を結成。昭和41年からテレビ番組「笑点」に出演,昭和58-平成17年司会者をつとめた。「芝浜」「中村仲蔵」など人情噺を得意とした。19年現役引退。平成21年10月29日死去。76歳。東京出身。本名は吉河寛海(ひろうみ)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
三遊亭円楽【さんゆうていえんらく】
落語家。五代目。東京浅草の浄土宗の寺院に生まれる。六代目三遊亭円生に入門。1962年真打ちに昇進。「笑点」をはじめテレビのバラエティ番組で人気を博した。1978年師匠の円生らとともに落語協会を脱退し,落語三遊協会を創設,円生没後,一門の落語家たちが落語協会に復帰するなか,円楽一門は復帰せず,「一門会」で活動を続けた。2007年「国立名人会」での「芝浜」を最後に現役を引退。六代目を弟子の楽太郎が継いだ。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
三遊亭 円楽(5代目) (さんゆうてい えんらく)
生年月日:1933年1月3日
昭和時代;平成時代の落語家
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の三遊亭円楽の言及
【落語】より
…軽妙な3代春風亭柳好(りゆうこう)(1889‐1956),明快な弁舌の3代三遊亭金馬,粋な3代桂三木助,近代落語の巨星8代桂文楽,独特の名人芸の5代古今亭志ん生,持ちネタの数と至芸を誇った6代三遊亭円生,人情噺,芝居噺の名手林家彦六(8代林家正蔵),新作の闘将5代古今亭今輔(いますけ)(1898‐1976)などが黄金時代を形成した。 1985年現在の東京には,〈落語協会〉に,滑稽噺の名手5代柳家小さん,新作の3代三遊亭円歌(1929‐ ),繊細で粋な2代古今亭志ん朝(1938‐ ),滑稽噺の人気者8代橘家円蔵(1934‐ ),飄逸な個性の10代柳家小三治(1939‐ )らがおり,〈芸術協会〉に,明朗な新作の4代桂米丸(よねまる)(1925‐ ),飄々たる妙味の新作の3代春風亭柳昇(1920‐ ),滑稽噺の10代桂文治らがおり,ほかに5代三遊亭円楽(1933‐ )一門,5代立川談志(1936‐ )一門などがあるが,志ん生,文楽などを筆頭にした名人上手の消えた穴は大きい。 一方,同じく現在の上方は,6代笑福亭松鶴(しよかく),3代桂米朝(べいちよう),3代桂春団治,3代桂小文枝(こぶんし)(1939‐ )などのベテランにつづいて,桂三枝(1943‐ ),2代桂枝雀(しじやく)(1939‐ ),桂文珍(ぶんちん)(1949‐ )などの若手が全国的な人気を集め,落語向きの寄席がないという悪条件のなかで,上方落語復興に精進をつづけている。…
※「三遊亭円楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」