上原専禄 (うえはらせんろく)
生没年:1899-1975(明治32-昭和50)
歴史学者,思想家。京都に生まれ,1922年東京高等商業学校(東京商科大学,現,一橋大学)卒業,22年から25年までウィーン大学のA.ドプシュ教授のもとで厳密な史料批判に基づく中世史研究を学び,〈フッガー時報考〉(1923年ドイツ語で発表,《独逸中世史研究》所収),〈クロスターノイブルク修道院のグルントヘルシャフト〉(1929年発表,《独逸中世の社会と経済》所収)とを著し,日本における中世史研究に大きな衝撃を与えた。第2次大戦中も〈サルウィアーヌス考〉(《思想》1943)などによって戦争批判の態度を示していたが,戦後は戦時の経験をふまえて,国民の歴史学の形成と新しい世界史の模索に向かい,一橋大学の学長としても,学長選挙への学生参加の方向を打ち出した。55年に創立された国民文化会議の議長となり,57年に日教組が創立した国民教育研究所とも深くかかわった。この頃からアジア・アフリカの問題に発言し《世界史における現代のアジア》(1956,増補改訂版1961)などを発表している。60年安保闘争の頃から知識人のあり方に疑問を抱いた彼は,幼少時から親しんでいた日蓮の研究に没頭し,69年妻の死ののちは〈回向三昧〉と称する生活に入った。しかしこれは同時に〈死者との共闘〉を通して新しい世界史認識を模索する営みでもあり《死者,生者》(1974)などにその思想の一端が示されている。現代日本が生んだすぐれた思想家の軌跡をそこにみることができる。
執筆者:阿部 謹也
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上原 専禄
ウエハラ センロク
昭和期の歴史学者,思想家 元・一橋大学学長。
- 生年
- 明治32(1899)年5月21日
- 没年
- 昭和50(1975)年10月28日
- 出生地
- 京都府京都市上京区丸太町(現・中京区)
- 出身地
- 愛媛県松山市
- 学歴〔年〕
- 東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部経済学科〔大正11年〕卒,ウィーン大学
- 経歴
- 大正11〜14年ウィーンに留学、ウィーン大学でドープシュの指導でヨーロッパ中世史を専攻。高岡高等商業学校教授を経て、昭和3年東京商科大学(現・一橋大学)商学専門部教授、4年同予科講師、14年同教授、21〜24年学長、のち一橋大学社会学部長。国民文化会議議長や国民教育研究所の研究委員会議長も務め、60年安保闘争では学者・文化人グループの支柱の一人だった。また戦後の平和運動、歴史教育運動に大きな影響力を与えた。35年一橋大学教授を定年前に退き、名誉教授の称号も辞退。晩年は世間から遠ざかり、京都で日蓮やマルクスの研究に専念。死亡が一般に知られたのも、死後3年8カ月を経てからのことだった。著書に「独逸中世史研究」「独逸近代歴史学研究」「歴史的省察の新対象」「大学論」「学問への現代的断層」「平和の創造」「世界史における現代のアジア」「日本国民の世界史」「死者・生者」「クレタの壺」など。また「上原専禄著作集」(全28巻 評論社)は、長女の手によって編集された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
上原専禄【うえはらせんろく】
歴史学者,思想家。京都に生まれる。東京商科大学(現,一橋大学)卒。1923年−1926年ウィーン大学で厳密な史料批判に基づいた中世史研究を学ぶ。1939年東京商科大教授,1946年一橋大学長となる(1949年まで)。第2次大戦の経験を重く受け止め,歴史教育や歴史学の根本的反省と主体性の確立を訴え,日教組が創設した国民教育研究所などに深くかかわる一方,アジア・アフリカ問題に関心を向けていった。しかし安保闘争後の革新政党や労働組合・知識人のあり方に疑問と失望を抱いてからは全ての公職を辞し,幼少時から親しんでいた日蓮の研究に没頭。妻の死(1969年)後は,死者との共闘を通した新しい世界史認識を追究するようになった。《上原専禄著作集》全28巻がある。
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上原専禄 うえはら-せんろく
1899-1975 昭和時代の歴史学者。
明治32年5月21日生まれ。昭和3年母校東京商大(現一橋大)の教授,21年学長。ドイツ中世史を専攻し,戦後はあたらしい世界史像の形成を模索。また国民文化会議議長などをつとめ,平和運動や教育運動をすすめる。晩年は日蓮を研究した。昭和50年10月28日死去。76歳。京都出身。著作に「独逸(ドイツ)中世史研究」「歴史的省察の新対象」「死者,生者」「クレタの壺」など。
【格言など】おれの死んだことはだれにも知らせるな(最期の言葉)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
上原専禄
うえはらせんろく
1899.5.21~1975.10.28
昭和期のドイツ中世史家。京都市出身。東京高等商業卒。1923年(大正12)から3年間ウィーンに留学。帰国後,高岡高等商業教授をへて,28年(昭和3)から60年まで東京商科大学教授として西洋経済史などを講じた。46~49年同大学長。実証的なドイツ中世史研究により学界での声価を確立。第2次大戦後は実践的意欲に支えられた独自の世界史像の構築と社会的発言に力を注いだ。著書「独逸中世史研究」「独逸中世の社会と経済」「世界史における現代のアジア」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
上原 専禄 (うえはら せんろく)
生年月日:1899年5月21日
昭和時代の歴史学者;思想家。一橋大学学長
1975年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の上原専禄の言及
【国民文化会議】より
…また米軍基地反対や再軍備・憲法改正反対,あるいは教育・マスコミの国家統制反対などでの労組と文化人の協力もある。初代会長は上原専禄,つづいて木下順二,野間宏,日高六郎が代表委員の時代があり,その後は日高が代表。専門家も労働者や主婦もヒザをつきあわせて討論する〈国民文化全国集会〉や〈文化シンポジウム〉などのほか,〈働くものの文化祭〉や各種発表会,原稿募集などを行う。…
【封建制度】より
…このようにして封建制と訳された西洋的概念は,前述のように近代史学の先駆者たちのドイツ史学学習によって精密化され,日本史に輸入された。しかし,このような封建制概念の〈脱亜入欧〉に際しても,漢語の封建がもつニュアンスが,無意識のうちに受け継がれたことは,すでに上原専禄も1938年の論考で〈鎌倉政権の樹立に日本封建制度の濫觴を見んと欲し,江戸法制にその完成を観ぜんとする〉傾向を,〈儒学的・支那学的思考の余韻〉というように指摘している。新見吉治が1936年刊の《武家政治の研究》で,〈西洋の封建時代は亦我に倣って武家政治の時代と呼んで差支えない〉とまでいっているのは,〈脱亜入欧〉の際無意識に混入した伝統的封建概念が顕在化した例である。…
※「上原専禄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」