上岡村(読み)かみおかむら

日本歴史地名大系 「上岡村」の解説

上岡村
かみおかむら

[現在地名]佐伯市上岡

古市ふるいち村の西、番匠ばんじよう川左岸の栂牟礼とがむれ山東麓一帯と同川右岸の高城たかじよう山北麓に位置。「栂牟礼実録」には、大永七年(一五二七)大友義鑑に攻められ栂牟礼城主の佐伯惟治が憤死したのちも同城にとどまった忠臣六八名中に上岡茂吉の名がみえる。また天正六年(一五七八)高城・耳川合戦で戦死した佐伯家中のうちに上岡和解がみえる。慶長期(一五九六―一六一五)には古市村に含まれていたと思われる。


上岡村
かみおかむら

[現在地名]岩舟町上岡

北は小野寺おのでら村、南は下岡しもおか村・安蘇あそ古江ふるえ村、東は小高い山を隔てて三谷みや村、西は山を境に安蘇郡富士ふじ(現佐野市)三杉みすぎ川が南流し、両側に水田が広がる。観応元年(一三五〇)八月二〇日の阿曾沼秀親譲状(小山文書)に、佐野庄内「上大賀」とみえ、当地に比定される。慶安郷帳に村名がみえ、田一八六石余・畑五四石余、野三石余。元和三年(一六一七)には下岡村と合せ門屋百姓一三(「日光御用割付」野城勝文書)。江戸時代を通して下総古河藩領。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば高二三六石余、うち新田三四石余、反別田一四町一反余・畑一〇町一反余、取米六七石余・永一〇貫余、小物成二貫余、夫永一貫余、大豆八斗余。


上岡村
かみおかむら

[現在地名]大正町上岡

宇津井川うついがわ村の西方仁井田にいだ川に石坂いしのさかから南流した谷川が合流する辺りに展開する村で、上山かみやま上分かみぶんの一村。「土佐州郡志」は「東限打井川、西限下岡村、南限勘当野、北限一之股村、東西三十町南北二里、戸凡二十、有渡船、其土黒」と記す。

慶長二年(一五九七)上山郷地検帳に村名がみえ、検地面積は六町六反余、ほかに切畑四反余がある。屋敷数は二二、うち居屋敷一九。上岡十兵衛の給地が若干あるほかは上山十兵衛の給地となっている。元禄郷帳では本田高六六石余。「西郡廻見日記」は当村と下岡村を連記し、二村で庄屋一(上岡在住)・名本一(下岡在住)、新田高四〇石余とする。


上岡村
うわおかむら

[現在地名]大子町上岡

久慈川の支流おし川の下流部にあり、東は浅川あさがわ村・大子だいご村。「水府志料」に「往古上沢、高岡一村にてありしよし申伝ふ。(中略)然れ共鎮守八竜神鰐口の銘に、元亀二、上沢村とあれば久しき事みえたり」とみえ、上沢かみさわ村・高岡たかおか村の二村に分れた。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「高岡村」とあり、同一五年の御代官郷高帳(「田制考証」所収)の村々高寄新家惣右衛門分にも「高岡村」「上沢村」とみえる。同二一年の御知行割郷帳によると高岡村は能瀬宗九郎ら一一人の、上沢村は大森主人ら二人の給地であった。


上岡村
かみおかむら

[現在地名]香住町上岡

下岡村の南西、佐津さづ川の中流域右岸に位置し、同川の対岸西方は隼人はやと村。古くは下岡村と一村で岡村といったと思われる。近世の領主の変遷九斗くと村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二二六石余。出石封内明細帳では拝領高二二九石余・改出高一二石余、これらの内訳は屋敷五石余・麻畑四石余・田方一二五石余・畑方一〇七石余、ほかに古新発高一六石余・新発高一一石余。


上岡村
かみおかむら

[現在地名]野市町上岡

物部ものべ川下流左岸、野市村の西にあり、中世物部庄に含まれた。「蠧簡集」によると、高岡郡五社ごしや大宮(現窪川町高岡神社)の蔵する当村上岡八幡宮の鰐口に「八幡物部庄上岡貞和五年十一月三日」の銘があった。天正一六年(一五八八)の物部庄地検帳に上岡村として地積一八町八反余が記され、うち屋敷は大小二九筆で一町九反余、畠は一町八反余、残りは田であった。

近世は物部村(現南国市)の枝村で(元禄郷帳)、元禄地払帳では物部村と合せて記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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