本末制度 (ほんまつせいど)
本寺・本山と末寺の関係についての制度。本末関係は,本山と末寺間の関係,末寺間相互の関係に分けられるが,前者を狭義の本末関係,後者を上寺下寺関係とすべきであろう。成立史的には後者が先行し,下寺群を擁する中本寺の小教団が形成され,近世に入って江戸幕府の寺院法度などの統制によって,1宗派1本山の制が原則とされると,それら中本寺もまた本山からは末寺として扱われることになり,狭義の本末関係が制度化された。上寺下寺関係の形成の要因として,第1に法系があげられる。中世の寺領荘園などにおける下寺の成立も,機能的には荘園支配などが考えられるが,その間を結ぶものは法系・師弟関係であったし,禅宗などでは師を勧請開山とすることで師の寺を本寺としたことなどがそれである。しかし法系による上寺下寺関係は,それが寺と寺の関係として維持されていくから,法系的要素はしだいに希薄化し,教団内の階層秩序に転化されやすい。第2の要因は,法務補完の必要に基づくものである。たとえば本坊境内に所在している塔頭(たつちゆう)がそれであるし,真宗などにおける檀家の日常的法務の担当者としての寺中や,遠隔地檀家に対する法務を行う下道場,下寺などがそれである。このようにして中世末期までには,各宗派ともに地方的な有力寺院が中本山となって小教団を形成していた。しかるに,江戸幕府による慶長・元和の寺院法度は,末寺住職の任免権や寺号免許権などを本寺(本山)に限定し,その下知に背反すべからざることを命じ,また,1631年(寛永8)には各宗派本山に対し末寺帳の作成を命じたので,1宗派に1本山のほかはすべて末寺とされることになった。こうした体制を比較的早く成立させていたのは真宗本願寺教団であったが,法然門下の浄土宗各派,洛中二十一ヵ本山といわれた日蓮系各派,永平寺と総持寺の2本山をもつ曹洞禅,五山各派と林下諸派に分立していた臨済禅などでは,1宗派として成立するためには多くの確執があった。こうして本山末寺関係が制度化されると,上寺下寺関係にも影響が及び,いわゆる下寺の独立上昇を望む本末争論が多く惹起された。またこれとは反対に,本山と末寺の間に新たな仲介機能をもつ寺院が出現して,取次を内容とする上寺下寺関係が新しく形成される本願寺教団のような状況も生まれた。こうしたとき,逆に本山側からは〈惣シテ天下ノ諸寺院ミナ本山ノ末寺〉(《考信録》)というように,上寺下寺関係を否定する考え方も主張されるようになった。明治維新以後,ほとんどの教団は上寺下寺制度を法制的に否定し,狭義の本末制をとっているが,法系や法務補完関係が重視される教団では,実質的解消にはいたっていない。
執筆者:大桑 斉
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本末制度
ほんまつせいど
江戸幕府が、全国の仏教諸寺院(末寺)を、宗派ごとに本山・本寺によって組織化させ、統制するための制度である。幕府は、1601年(慶長6)以来、諸宗派の本山・本寺に寺院本山法度(はっと)を発布して、本山・本寺である地位を保障し、同時に宗派寺院編成の権限を与えた。これと併行して、末端の寺院が本山・本寺の許可なく存在したり、新たに寺院を建立することを禁じて、本山・本寺の下に従属しなければ存在できないようにした。このような幕府による有利な政策を受けて、本山・本寺は教団編成に取り組んだ。すでに中世期までに、法脈を介した人と人との師弟関係が結ばれていたり、あるいは地域的に有力な寺院が周辺の弱小寺院を従え、ある程度の地域組織がつくられているなどの、寺院の上下関係が存在していた。それら既存の関係を、たとえば人と人との流動的な関係を寺院と寺院との本末関係に固定したり、あるいは地方のおもだった有力寺院には幕府による寺領安堵(あんど)をてこに従わせるなど、整備しつつ、近世本末関係の編成は徐々に進められていった。幕府はさらに、1632~33年(寛永9~10)に諸宗末寺帳を作成提出させた。この寛永(かんえい)期段階の末寺帳は提出が全宗派に及ばなかったり、地域的な偏りがあったが、その後、本末帳は全宗派に及び、各宗派の寺院本末関係が決定・固定され教団組織の柱ができあがった。
本末関係を軸にした教団組織の構造は、各宗派で名称こそ異なるが、共通に寺格が幾階層にも分かれ、寺格に応じた座位や装束が定められて教団内の序列を秩序づけていた。また教団を越えて、律令(りつりょう)制以来存続した僧位僧官も寺格に応じて補任(ぶにん)された。この僧官位と寺号・院号の許可は寺院僧侶(そうりょ)の身分を確保するうえでもっとも基本的な補任である。諸補任すべてに補任料が必要であり、そのうえに末寺は本山・本寺に定例や臨時の上納金を納める義務(末寺役)を負ったため、宗派によっては末寺院の経営を圧迫することになった。末寺は末寺役などの大部分を檀家(だんか)負担(檀家役)に転嫁させたのだが、この末寺院―檀家を一体として財源の基礎に据えて本山・本寺による教団編成が成り立っていた。幕府は、全国の仏教寺院・僧侶の統制を、本山・本寺を通したこの本末制度・教団組織によって可能にしたといえる。
[高埜利彦]
『辻善之助著『日本仏教史』(1953・岩波書店)』
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本末制度
ほんまつせいど
仏教寺院の寺格制度。一宗派の中心となって統轄する本寺 (→本山 ) と,それに付属する寺院である末寺によって構成される重層的な制度および組織をいう。江戸時代に寺院の統制支配のため江戸幕府が制度化したもの。本寺は末寺の住職任免権,裁判権を掌握し支配していた。第2次世界大戦後は,信教の自由と政教分離の二大原則により,「宗教法人法」が制定され,従来の本末という概念を廃し,包括・被包括という言葉を使用するようになった。そして被包括寺院は,その信徒を含めた寺院の意志によって,包括関係から容易に離脱することができるようになった。
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本末制度【ほんまつせいど】
中世から形成されはじめ,江戸幕府が仏教勢力統制のため制度化した宗派内の本山末寺の重層的関係。1601年以来の寺院法度(はっと)で全国の寺院をすべて寺社奉行支配下におき,大本山,中本山,小本寺あるいは上寺(うわでら)などの管理する寺院から,直末寺,孫末寺,曾孫末寺あるいは下村などの管理を受ける寺院へというピラミッド形に編成した。本山は末寺の住職任免権,裁判権を握って支配した。
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本末制度
ほんまつせいど
江戸幕府により定められた本山・末寺の制度。日蓮宗の京都二十一カ本寺のように中世から末寺をもつ本山はあったが,幕府は寺院法度によりこれを制度化。本山を各宗1カ寺に限定したうえ,本山―中本寺―小本寺―平院という重層的な関係を構築し,支配機構のなかにくみいれようとした。本山は中世以来もっていた政治的・経済的特権を否定される一方,末寺への命令権,住職の任免権,寺号免許権などを与えられ,末寺に対する中央集権支配が可能となった。本山はこれをてこに,近世を通じて末寺統制を強化。末寺に対してさまざまな名目の上納金を強要するとともに,本山での主要行事への出席などを義務づけていった。
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世界大百科事典(旧版)内の本末制度の言及
【仏教】より
… こうして,近世仏教にはいくつかの特色が指摘できる。一つは近世の寺院[本末制度]の成立である。各宗本山が幕府に提出した末寺帳を台本にして,全国の寺院は本山・直末・孫末・曾孫末と分けられ,その本末関係が幕府によって公認され,変更は事実上不可能だった。…
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