上方村(読み)かみかたむら

日本歴史地名大系 「上方村」の解説

上方村
かみかたむら

[現在地名]日南市上方

下方村の西に位置し、北は隈谷くまや村、北西毛吉田けよしだ村、南は津屋野つやの(現南郷町)。村の中央を細田ほそだ(広田川)が東流する。古くは下方村と一村であったといい、同村などと同じくかつては当地付近までも日向灘が湾入していたと伝える(「日向地誌」など)。村の東端付近に枝村南郷なんごう村がある。村の東端、下方村境には飫肥藩領の南域(南郷、「日向地誌」でいう南方)の軍備をつかさどった南郷地頭の役宅が設けられていた。当村も同地頭の管轄下であり、南郷上潟なんごうかみかたなどともいった(正徳四年飫肥藩人給帳)。下方村から当村東部を抜け、津屋野村を経て外浦とのうら(現南郷町)に至る往還(外浦往還)や同じく下方村から入り、当村を横断して萩之嶺はぎのみね村の仏坂ほとけざか大窪おおくぼ村を経て福島ふくしま(現串間市)へ至る道が通っていた。耕地は田が多く畑は少なかった(日向地誌)

寛文四年(一六六四)の飫肥藩領郷村高辻帳に村名がみえる。


上方村
かみがたむら

[現在地名]安塚町上方

北流する小黒おぐろ川の右岸段丘上にある。北は安塚村、東は安塚村の二ッ城ふたつちよを経て坊金ぼうがね村、西は小黒川を挟み石橋いしばし村。村名は安塚村の上の方に位置することによるという。天正一四年(一五八六)から二〇年の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)には、本願寺に鳥目六〇疋を納めた村々のなかに「下方村」と並んで「カミカタ」がみえる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「吉田与橘郎分此外四方分上潟村 中」とあり、本納二〇石三斗二升・縄高六三石七斗八升三合、家四軒・一六人。正保国絵図では高一〇九石余。天和三年郷帳では高九九石余、うち山高二石八斗九升五合・漆高一石六斗三升・青苧高二斗二升八合、反別田六町二反余・畑屋敷一町九反余・山林一四町四反余・青苧畑二畝余で、漆木一六三本。


上方村
うわがたむら

[現在地名]養老町上方

竜泉寺りゆうせんじ村の北、養老山地の北東麓に位置し、北西は桜井さくらい村。集落は小高い地にある。伊勢東街道が通る。慶長郷帳に「(上カ)桜井村」とみえ、桜井村と合せ高五五六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では上方村一村で高付され、田三二八石余・畑二三石余、山年貢二石余で、大垣藩領。


上方村
かみがたむら

[現在地名]柏崎市上方

東は藤橋ふじはし村、西の剣野けんの村との間に川が流れる。「柏崎編年史」によると、当村より南方を上方と唱えて上条上杉氏に、北方を下方と唱え、長尾為景方の柏崎日向守に属したと伝える。その時期は上杉定兼が上条じようじよう城に拠った時と推定される。近世支配柏崎町と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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