下宮村(読み)しもみやむら

日本歴史地名大系 「下宮村」の解説

下宮村
しもみやむら

[現在地名]岩出山池月いけつき 下宮

上一栗かみいちくり村の西北、東南流する江合えあい(荒雄川)左岸にあり、西北は上宮村、北は栗原郡長崎ながさき(現一迫町)、北部は名生法みようほう(妙法山、二七七メートル)などの丘陵。江合川沿いに中山なかやま越出羽道が通り、下宮宿が置かれた。正保郷帳では田一九貫八六七文・畑三貫一二九文、ほかに新田三三二文。安永年間(一七七二―八一)には田二一貫五九九文・畑三貫八一〇文、うち蔵入六二二文でほかは給所。人頭二一人、家数一七・人数一三二、馬四二。姥ヶ沢・米沢の二つの用水堰があった(安永風土記)


下宮村
したみやむら

[現在地名]藤岡町下宮

西を渡良瀬川が南へ流れ、東は巴波うずま川・与良よら川・赤麻あかま沼・おもい川が合流して南へ流れ、当村南端で渡良瀬川と合流する。北は横堤よこづつみ村。佐野氏の一族柴宮六郎盛重の子孫によって開かれたとも、天正一八年(一五九〇)藤岡城落城以後城主茂呂弾正久重の嫡男茂呂玄蕃が帰農して開いたとも伝えられる。慶安郷帳に村名がみえ、畑高四四二石余、下総古河藩領。元禄九年(一六九六)の下宮一件堤出入願書(青木アイ文書)によれば当村の開発は古河藩永井氏の時代で、寛永三―九年(一六二六―三二)の間のことと思われる。新畑は開かれたが、当村に堤防を築くことには近郷の寒川さんがわ(現小山市)ほか一二ヵ村が強く反対したため延期されていた。


下宮村
しものみやむら

[現在地名]豊岡市下宮

庄境しようざかい村・鎌田かまた村・南谷みなみだに村・馬路まじ村の西、鎌谷かまたに川の支流下宮川の谷に立地し、西は火撫ひなど村、北は金剛寺こんごうじ村、東は国境の河梨こうなし峠を経て丹後国熊野くまの郡河梨村(現京都府久美浜町)に通じる。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図には河梨峠は「下宮峠」と記され、「是ヨリ丹後国久美町ヘ出ル道 此境ヨリ豊岡一里拾七丁」「是境ヨリ下宮迄三十丁 此坂雪積□□□ハ牛馬不通」とある。当村鎮守胸形(宗像)大明神は「延喜式」神名帳の城崎きのさき郡に載る久々比くぐひ神社で、その所在地として戦国期までは久々比とよばれていた。


下宮村
しものみやむら

[現在地名]和泉市下宮町

国分こくぶ村の南、槙尾まきお川沿いに位置する。横山よこやま谷の一村地名は、かつて式内社男乃宇刀おのうと神社の一座が当地にあり、仏並ぶつなみの一座を上宮と称するのに対し、当地の一座を下宮とよんだことに由来する(→男乃宇刀神社。文禄三年(一五九四)検地帳(池辺家文書)横山谷で一括されていて村高は不明だが、当村居住者の名請人は七名。寛永一五年(一六三八)の年貢高は七一石余、うち三・五石は大豆納(同文書)


下宮村
げぐうむら

[現在地名]山鹿市津留つる

中世修験道の山として知られたひこ(三五五・一メートル)の南麓に位置し、彦岳下宮を中心とした村落。北・西・東は津留村、東南部は岩野いわの川を挟んで寺島てらじま村と接する。慶長四年(一五九九)の検地帳によれば田四町一反四畝余・畠三町二反六畝余・屋敷六筆二反二畝、分米七五石一斗余、下ケ名に、乙宮田・ふろしべ・ひかんでん・鳥居田・油田・塚ノ本・下つる・仏塚など修験に関係あると思われるものがある。天正検地を写したとされる慶長九年九月の検地帳では田四町四反七畝余・畠屋敷三町四反三畝余・屋敷筆数九、分米七五石一斗余。近世は山鹿手永に属した。


下宮村
しもみやむら

[現在地名]神戸町下宮

揖斐いび川右岸に位置し、北は神戸村。下ノ宮とも記す。村名は神戸日吉神社を上ノ宮と称し、当村の日吉神社を下ノ宮と称したことに由来するという(新撰美濃志)。天正一〇年(一五八二)一一月日の羽柴秀吉・丹羽長秀連署禁制(日吉社由緒録写)に「濃州下宮」とみえる。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳には下ノ宮村とみえ村高九一四石余。正保郷帳では大垣藩領五〇五石余・勧学かんがく院領三二石があり、田高三〇六石余・畑高二三四石余、ほかに同藩新田三〇石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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