下方村
しもかたむら
[現在地名]日南市下方・大堂津一―五丁目
隈谷村の南に位置し、細田川の最下流域を占める。西は上方村。下潟とも記し、また南郷下潟とも書き(正徳四年飫肥藩人給帳)、南郷地頭の管轄地であった。東流してきた細田川は村の西部で北流してきた南郷川を合せて流れを北に変え(南郷川合流点から下流を大堂川・法瀬川ともいった)、さらに大きく迂回して流れを南に向け日向灘へと注ぐ。村の南東部、流れを南に変えてからの細田川の左岸を占める枝町大堂津は日向灘に面し、江戸時代には飫肥領四浦の一にあげられる良港であった。なお「日向地誌」や「日向纂記」が載せる伝承によると、慶安年間(一六四八―五二)に中村(現南郷町)に松田堤が築かれる以前は、上方村との境付近まで日向灘が湾入、海はさらにその先の津屋野村(現南郷町)から外浦(現同上)までも通じていたという。当地や上方(上潟)の一帯には干潟が形成され、そのことが地名の由来であり、また南郷川合流点の北方、上方村境の字海門は、当時海門があったことにちなんだ地名ともいう。
寛文四年(一六六四)の飫肥藩領郷村高辻帳に村名がみえる。検地古今目録(日向国史)によると慶長一〇年(一六〇五)には高八九一石余・田畑屋敷七八町九反余、寛保二年(一七四二)には高七八七石余・田畑屋敷六二町七反余。延享三年(一七四六)の飫肥藩領郷村高辻帳では再び高八九一石余となっている。
下方村
しもがたむら
平戸村の南から東にわたる広域の村で、平戸島の両岸に及ぶ。安満岳の南に鯛ノ鼻、その東に上床、これらの南方に鷺ノ岳・有僧都岳・慈眼岳があり、東部には安満川・木ヶ津川が注ぐ木ヶ津浦がある。天正一七年(一五八九)の御祓賦帳(橋村家文書)に伊勢御師が廻村配札すべき「志も方浦分」一一ヵ村のうちとして今福(現松浦市)、佐世保・日宇・早岐(現佐世保市)、福島(現福島町)・大島(現大島村)・生月(現生月町)・小鹿島(現小値賀町)などが記される。
下方村
したかたむら
[現在地名]成田市下方・宗吾一―四丁目
台方村の南に位置し、西は印旛沼を挟み平賀村(現印旛村)。承応二年(一六五三)の公津村の分村により成立し、以後公津を冠称し公津下方村ともよぶ。翌三年の地詰帳(東勝寺文書)に印東庄公津下方村とある。佐倉藩領。分村時の高四五〇石余、承応三年の地詰帳では高五〇二石余。反別は上田四町二反余・中田八町三反余・下田三二町二反余、上畑二反余・中畑二町六反余・下畑一五町五反余、屋敷一町三反余。
下方村
しもがたむら
[現在地名]柏崎市下方
東は藤橋村、西は鵜川を挟んで剣野村、北は横山村、南は上方村。鵜川の右岸に集落を形成し、頸城郡松之山(現東頸城郡松之山町)あるいは黒岩(現中頸城郡柿崎町)筋の往還沿いにある。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に高二八四石余。
下方村
しもがたむら
[現在地名]大野町下方
相羽村の南、根尾川と三水川に挟まれた地にある。慶長郷帳には村名がみえないが、元和二年(一六一六)の村高領知改帳には高四五七石余とあり、堀直寄(越後長岡藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田三三五石余・畑一二二石余。元禄郷帳でも同藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田二〇町六反余・畑二四町余、家数一〇四・人数四五〇、馬二〇、農間に酒造一・紺屋二・大工一・木挽一。
下方村
しもがたむら
[現在地名]落合町下方
垂水村の西方、備中川沿いに位置し、川の北は平野、南は台地となっている。日野上川などの谷川が当地で備中川に注ぐ。東西に落合往来が走り、同往来から木山寺・木山神社へ向かう道が当地で分岐する木山詣入口の村。正保郷帳では田高三五五石余・畑高一五七石余。
下方村
しもがたむら
[現在地名]安塚町安塚
直峰城跡の南西山麓にあり、小黒川の河岸段丘上に立地。北は松崎村、南は安塚村。村名は安塚村の下方に位置することによるといい、元禄郷帳には安塚村枝村とある。天正一四年(一五八六)から二〇年の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)に本願寺に鳥目六〇疋を納めた村々のなかに村名がみえる。
下方村
しもかたむら
[現在地名]大東町中
海戸村の東に位置する。中世は中村郷に属したとみられる。江戸時代の領主の変遷は来福村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方四七六石余・畑方五九石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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