改訂新版 世界大百科事典 「印判状」の意味・わかりやすい解説
印判状 (いんばんじょう)
戦国時代の武家文書の一つ。花押のある文書を判物(はんもつ)というのに対し,印章をおした文書をいう。印判状にはおもに朱印,黒印の2種があり,朱印状,黒印状と呼ぶ。日本の伝統的な思想として朱印は正,黒印は副との考え方があり,朱印は黒印に優るとされた。書札礼の上からは黒印は薄礼との考え方である。印判状の初見は長享1年(1487)10月20日付の駿河今川氏親印判状(黒印)である。鎌倉時代の武家文書は全く無印であったが,戦国の世の印判状の出現は禅林印章の強い影響によるもので,戦国武将が禅林に接近してその風習に感化されたことが要因となっている。禅僧は14世紀ごろには花押に代えて印章を随時愛用していたのである。初期の印判状は尾張・美濃以東の東国地方,すなわち近畿地方のように公家文化の感化を受けた地域と異なる辺境に隔絶する文化圏に限って,簡便な新様式として普及した。印判状の全国的普及はまず織田信長の京都進出によって果たされた。戦いに明け暮れする戦国の世には花押よりはるかに簡便な様式の印判状が歓迎され,武家文書の主要な一様式となったのである。
印判状は群雄割拠の世にあっては自己主張の一方法としてその印章の押し方に相違があるとともに印章の意匠にも相違があった。今川氏は初期には名の下押印であったが,後には本文書出しの肩の押印となった。相模の後北条氏は月の上に重ねて押印,陸奥の伊達氏は日付下に花押代用に,甲斐の武田氏は文書の袖の場合と日付に重ねるのと2様式,越後の長尾上杉氏は月に重ねて,時には日付下にと両様の混用,安房の里見氏は日付下押印であったが小田原後北条氏の勢力圏に入ると後北条様式の月に重ねた押印様式に変更した。武蔵の吉良氏は完全に後北条様式であったが,それは後北条の権力圏に終始したからである。家康は,16世紀末に甲斐を統治したころは武田氏様式の日付に重ねた押印の仕方を採用していたが,のち信長・秀吉と同様,日付の下方に花押に代えて押印するようになった。近世文書の押印はすべてこの流れを汲んだ。戦国大名の中で印章を重視したのは後北条氏であって,虎の印には家印の権威が付与されていた。北条氏康以来4代にわたって虎の印を使用したが,これとは別に各自の私印を所有して文書に使用した。家印は当主の専用とし,出陣に際しては携行して陣中で使用した。隠居した人はたとえかつての当主であっても使用は認められない。秀吉は生涯通称糸印(いといん)という正円の印文不明の印を朱印にして〈秀吉〉名の下と日付下方の2様に押印した。このように秀吉は印章には無関心であったが,1586年(天正14)太政大臣に任じ,豊臣姓を下賜されると印文〈豊臣〉の方印を有した。この印は純金製,二重郭,方8.9cmの巨大印で,天皇御璽の方8.7cmを僅少ながら超過する。
→印章
執筆者:荻野 三七彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報