日本歴史地名大系 「下総牧」の解説 下総牧しもうさまき 千葉県:総論下総牧下総国内に置かれた牧場。古代には馬牧・牛牧がみられ、江戸時代には幕府直轄の馬牧が北西部の小金(こがね)牧、北東部の佐倉牧として経営されていた。下総内陸部は関東ローム層の赤地の台地が広がり、利根川や印旛(いんば)沼・手賀(てが)沼などの低湿地の谷津が複雑に深く入り込む地勢で、この標高一五―三〇メートル(小金牧)または三〇―五、六〇メートル(佐倉牧)を割って村落や耕地が形成されていた。台地上は地味のやせた酸性土壌で、水の便も悪く、近世までは荒蕪地の原野が続き耕地化を妨げていたが、一方では四十里(しじゆうり)野(のち小金野)・千葉野・佐倉野とよばれる原野として、古くから野馬に限らず鹿や小獣の繁殖に適したところであった。慶応二年(一八六六)の嶺岡牧士意見書(永井家文書)に下総牧場とある。〔古代〕律令制下では下総国に高津(たかつ)馬牧・大結(おおゆい)馬牧・木島(こじま)馬牧・長洲(ながす)馬牧および浮島(うきしま)牛牧が置かれ、馬は五―六歳、牛は四―五歳になると毎年左右馬寮に進納することになっていた(「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条)。これらの所在地は明らかでなく、高津牧は現八千代市高津を含む一帯とも現多古(たこ)町高津原(たかつはら)ともいわれ、大結牧は意富比(おおひ)神社と音が類似し、伊勢神宮の大祓馬に下総の馬が貢進されていることから夏見(なつみ)御厨を関連させて現船橋市の旧船橋五日市(ふなばしいつかいち)村・夏見村を含む一帯と想定しうる。また浮島牧は東海道浮島駅の比定地の一つ現千葉市花見川(はなみがわ)区幕張(まくはり)にあてる説などがある。久安二年(一一四六)千葉常胤は上馬二疋・鞍置駄馬三〇疋を国庫に進済するなどして相馬郡司になったという(櫟木文書)。香取神宮の摂社側高(そばたか)神社(現佐原市)の神が香取大神の命で陸奥に遠征して馬を奪い、その馬を香取の牧につなぎ、それから馬を野に放ったので下総に牧が多いという伝説があり、明治初期まで津宮(つのみや)河岸(現佐原市)で行われていた白状祭は香取の神が馬牧の神としての一面をもっていたとされる。〔中世〕香取の牧の所在地は未詳であるが、平安末期から葛原(くずはら)牧(現佐原市・小見川町)がみえるが、中世的な所領として再編成されている。しかし鎌倉時代の房総もまた貢馬・神馬の進献、牛追物・流鏑馬・競馬などが多くみられ(吾妻鏡)、建久期(一一九〇―九九)の香取神宮遷宮用途注進状(香取文書)によれば、神崎(こうざき)郷(現神崎町)・萱田(かやた)郷(現八千代市)などが郷単位で覆勘使の引物として馬または伝馬を負担している。永正六年(一五〇九)連歌師柴屋軒宗長が妙見宮(現千葉神社、千葉市中央区)の祭礼で三〇〇疋の早馬を見物している(東路の津登)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by