下高野村(読み)しもたかのむら

日本歴史地名大系 「下高野村」の解説

下高野村
しもたかのむら

[現在地名]杉戸町下高野・高野台東たかのだいひがし高野台南たかのだいみなみ高野台たかのだい西

杉戸宿の北西に位置し、村の東部を日光道中が通る。西部を通る日光御成道沿いには一里塚があり(県指定文化財)和戸わど橋の傍らの道しるべを兼ねた宝暦七年(一七五七)建立の庚申塔には正面に「三姑神」と刻し、左側に「右すぎと道、左さつて道」と刻まれている。また鎌倉街道中道が通っていたとされる伝承があり 現在の万願寺まんがんじ橋付近で利根川を渡って当地に入り下野しものを抜けて幸手宿に入る道であったという。「吾妻鏡」養和元年(一一八一)閏二月二三日条に「古我高野等渡」とみえ、下河辺庄司行平・同弟四郎政義が古我(現古河)・高野の渡を固め、敗走する志田義広方の残党を討止めているが、この高野渡は当地にあった利根川渡とされる。


下高野村
しもこうやむら

[現在地名]会津若松市高野町こうやまち柳川やながわ

米沢へ至る街道に沿い、南は上高野村、北は東森台ひがしもりだい村、西は下吉田しもよしだ村。集落は南と北の二区に分れ、北の一区を北村きたむらともよんだ。上高野村とともに、この辺りは中世に開発された墾田で、当時荒野こうやとして年貢や課役の特別措置を受けていた地域であったとも考えられる。康暦三年(一三八一)五月二七日の禅尼浄仙寄進状(実相寺文書)に「門田クワウヤノ内ウタガハノ九郎之跡毎年得分拾貫文之所」とあり、「クワウヤ」の内が実相じつそう寺に寄進されている。至徳元年(一三八四)蘆名直盛が黒川くろかわに築城する際、当地に注連を張り、良尊という僧に工事の無事竣工を祈願させ、工匠の居宅を構えて、建築用材木の選別をさせたという(新編会津風土記)


下高野村
しもだかのむら

[現在地名]豊中町下高野

岡本おかもと村の北、七宝しつぽう山麓から竿さお川の流域にかけて位置する。寛永国絵図に村名がみえ、熊岡くまおか郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では八六二石余。「西讃府志」によれば村の広さは東西八町二六間・南北二六町三間。高八六二石余、反別は九三町六反余、うち畑二九町八反余・屋敷二町七反余。家数二六三・人数一千九三、牛一五六・馬七、橋二。池はなか(周囲五町二一間、漑田一四町五反余)神田こうだ(周囲五町四八間、漑田一五町六反余)など六。畑がちなのは西部一帯が七宝山麓のためである。山麓を利用して京極氏時代から桃の栽培が行われた。享保元年(一七一六)真鍋藤五郎なる人物が山城国伏見ふしみ(現京都市伏見区)より苗を持帰り、移植したのに始まると伝える。


下高野村
しもこうやむら

[現在地名]八千代市下高野

米本よなもと村の東に位置し、北は保品ほしな村。元和三年(一六一七)知行宛行状葛飾かつしか郡のうちとして村名がみえ、当村などの八四七石が旗本川口(河口)領となっている。承応二年(一六五三)の田畑改帳(立石家文書)でも葛飾郡とされ、川口領。反別は田一〇町二反余・畑二町九反余・屋敷一反余で、ほかに福蔵ふくぞう(現真言宗豊山派)の寺屋敷二畝余、名主(三郎右衛門)居屋敷二畝余、井水免として中田五畝余があった。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一四四石余、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。文政一三年(一八三〇)の村明細帳(立石家文書)によれば本高一四六石余に享保一二年(一七二七)の新田一六石を合せて高一六二石余、小物成として夫役永四三二文余・林銭永一二九文余・新山銭鐚二貫五三〇文・秣場野銭永鐚四六六文などがあった。


下高野村
しもたかのむら

[現在地名]御船町高木たかき

北は北甘木きたあまぎ(現嘉島町)、西は甘木村に接する。慶長国絵図に村名はみえないが、慶長一二年(一六〇七)検地帳が作成されている(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)。木倉手永に属し、「国誌」は小村として上古閑村・下古閑村を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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