大正・昭和期の日本画家 東京美術学校教授;文展審査員;蒼野社主宰。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
日本画家。本名垣吉。静岡県下田市に生まれる。12歳のとき《新選光琳百図》の著者野沢堤雨につき琳派を,14歳で土佐派の川辺御楯(かわべみたて)に大和絵を学んだ。1908年東京美術学校日本画科選科に入学,また紅児会会員となる。12年卒業,同年第6回文展に《乳糜供養》を,15年再興第2回院展に《薄暮》を出品して認められ,同人に推されるとともに横山大観の信頼を得た。その後毎年,院展に出品,《浮舟》《竹取物語》《貴妃賜浴》といった大和絵研究の上にたったものから,しだいに装飾性や洋風の感覚が加味され,取材範囲もひろがって33年第20回院展に《都会女性職譜》を出品したが,そのうちの〈女給〉は風紀に触れるとの名目で1日にして撤去された。39年より法隆寺壁画の1号壁模写を担当,また39年第26回院展に《流紋》を発表,水にうつる線のおもしろさと遊泳する鮎を感覚的にとらえた描法が注目を集めた。50年日本美術院内部の確執から院を脱退,大観と別れ,この年第6回日展に《気球場》を出品,新たな決意を示した。62年文化勲章受章。晩年は風景画に新境地を打ち出し,戦後日展における一つの勢力を形成した。ほかに四天王寺金堂壁画があり,また新宮殿豊明殿には1936年改組第1回帝展出品作《豊幡雲》が緞通(だんつう)として飾られている。
執筆者:佐々木 直比古
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日本画家。静岡県下田(しもだ)に生まれる。本名恒吉(つねきち)。初め野沢堤雨(ていう)に琳派(りんぱ)を、川辺御楯(かわのべみたて)に土佐派を学び、伝統的大和絵(やまとえ)の技術を習得した。1908年(明治41)東京美術学校に入学。この年から紅児会(こうじかい)に加わり、同校卒業の12年に第6回文展初入選。14年(大正3)赤曜(せきよう)会の結成に参加し、再興第1回院展に初入選。翌年、同人に推挙され、長く院展で活躍する。28年(昭和3)日本美術学校教授、31年には多摩美術学校教授となり、35年に帝国美術院参与。40年、法隆寺壁画模写に参加し、第二次世界大戦後の47年(昭和22)には日本芸術院会員となる。50年に院展を脱退し、以後日展で活躍。61年、大阪四天王寺金堂壁画制作に対して毎日芸術大賞と朝日文化賞を受け、翌62年には文化勲章を受章した。大和絵や琳派研究に加えて写実を重視し、澄明な色彩を生かした画風で知られた。代表作に『輪廻(りんね)物語』『都会女性職譜(しょくふ)』『気球揚(あが)る』などがある。
[二階堂充]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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