デジタル大辞泉
「中村岳陵」の意味・読み・例文・類語
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なかむら‐がくりょう【中村岳陵】
- 日本画家。静岡県出身。本名、恒吉。東京美術学校卒業後、院展・日展で主導的地位を占め、また、画塾蒼野社を主宰して後進の指導にもあたる。土佐派の画風をきわめ、大和絵に近世西欧絵画の描法を取り入れ、感覚的で新鮮な画風を確立。日本芸術院会員。代表作「白狗」「流紋」。明治二三~昭和四四年(一八九〇‐一九六九)
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中村 岳陵
ナカムラ ガクリョウ
大正・昭和期の日本画家 東京美術学校教授;文展審査員;蒼野社主宰。
- 生年
- 明治23(1890)年3月10日
- 没年
- 昭和44(1969)年11月20日
- 出生地
- 静岡県下田町
- 本名
- 中村 恒吉(ナカムラ ツネキチ)
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校日本画科選科〔明治45年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 朝日賞(文化賞 第31回 昭35年度)「四天王寺金堂壁画」,毎日芸術賞(大賞 第2回 昭35年度)「四天王寺金堂壁画」,文化勲章〔昭和37年〕
- 経歴
- 少年時代から光琳派や土佐派の画家について大和絵の筆法を学び、美校在学中に今村紫紅や安田靫彦らと紅児会を組織。大正3年今村紫紅らの赤曜会に参加。4年院展に出品した「薄暮」で同人に推挙され、以後院展を中心に活躍。15年東京美術学校教授。昭和10年からは官展にも出品。同年より多摩美術学校(現・多摩美術大学)教授。15年より法隆寺金堂壁画摸写に従事する。25年に院展を離れて日展に移り、やがてその指導的地位を占めた。主な作品には、古典探求の成果を示した「輪廻物語」、日本画に新境地を開いたといわれる「気球揚る」、大阪四天王寺新金堂の大壁画「仏天図」、発表30余年後に皇居豊明殿の障壁画段通に採用された「豊幡雲」のほか「挟霧霽れ行く」「雪晴」「貴妃賜浴」「流紋」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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中村岳陵 (なかむらがくりょう)
生没年:1890-1969(明治23-昭和44)
日本画家。本名垣吉。静岡県下田市に生まれる。12歳のとき《新選光琳百図》の著者野沢堤雨につき琳派を,14歳で土佐派の川辺御楯(かわべみたて)に大和絵を学んだ。1908年東京美術学校日本画科選科に入学,また紅児会会員となる。12年卒業,同年第6回文展に《乳糜供養》を,15年再興第2回院展に《薄暮》を出品して認められ,同人に推されるとともに横山大観の信頼を得た。その後毎年,院展に出品,《浮舟》《竹取物語》《貴妃賜浴》といった大和絵研究の上にたったものから,しだいに装飾性や洋風の感覚が加味され,取材範囲もひろがって33年第20回院展に《都会女性職譜》を出品したが,そのうちの〈女給〉は風紀に触れるとの名目で1日にして撤去された。39年より法隆寺壁画の1号壁模写を担当,また39年第26回院展に《流紋》を発表,水にうつる線のおもしろさと遊泳する鮎を感覚的にとらえた描法が注目を集めた。50年日本美術院内部の確執から院を脱退,大観と別れ,この年第6回日展に《気球場》を出品,新たな決意を示した。62年文化勲章受章。晩年は風景画に新境地を打ち出し,戦後日展における一つの勢力を形成した。ほかに四天王寺金堂壁画があり,また新宮殿豊明殿には1936年改組第1回帝展出品作《豊幡雲》が緞通(だんつう)として飾られている。
執筆者:佐々木 直比古
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中村岳陵【なかむらがくりょう】
日本画家。静岡県下田生れ。本名恒吉。川辺御楯(みたて)に土佐派を学び,1912年東京美術学校を卒業後,院展同人となり,のち日展に移った。大和絵の技法を根底におき,種々の新しい表現を取り入れた。1961年四天王寺壁画を完成して毎日芸術大賞受賞。1962年文化勲章。
→関連項目中村正義|福田平八郎|山口蓬春
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中村岳陵
なかむらがくりょう
(1890―1969)
日本画家。静岡県下田(しもだ)に生まれる。本名恒吉(つねきち)。初め野沢堤雨(ていう)に琳派(りんぱ)を、川辺御楯(かわのべみたて)に土佐派を学び、伝統的大和絵(やまとえ)の技術を習得した。1908年(明治41)東京美術学校に入学。この年から紅児会(こうじかい)に加わり、同校卒業の12年に第6回文展初入選。14年(大正3)赤曜(せきよう)会の結成に参加し、再興第1回院展に初入選。翌年、同人に推挙され、長く院展で活躍する。28年(昭和3)日本美術学校教授、31年には多摩美術学校教授となり、35年に帝国美術院参与。40年、法隆寺壁画模写に参加し、第二次世界大戦後の47年(昭和22)には日本芸術院会員となる。50年に院展を脱退し、以後日展で活躍。61年、大阪四天王寺金堂壁画制作に対して毎日芸術大賞と朝日文化賞を受け、翌62年には文化勲章を受章した。大和絵や琳派研究に加えて写実を重視し、澄明な色彩を生かした画風で知られた。代表作に『輪廻(りんね)物語』『都会女性職譜(しょくふ)』『気球揚(あが)る』などがある。
[二階堂充]
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中村岳陵
なかむらがくりょう
[生]1890.3.10. 下田
[没]1969.11.20. 逗子
日本画家。本名は恒吉。初め土佐派の画風を学ぶ。 1912年東京美術学校日本画科を卒業。近代西欧絵画の描法をも研究し,院展に『薄暮』 (1915) ,『童謡』『流紋』などを出品して画壇に地位を築き,50年日展に移って新日展運営会常務理事をつとめた。 47年日本芸術院会員,61年大阪,四天王寺の金堂壁画を完成して毎日芸術大賞,朝日文化賞を受け,62年文化勲章受章,文化功労者。その他の主要作品『輪廻物語』 (21,永青文庫) ,『雪晴』 (46,東京都庁) ,『気球揚る』 (50,東京国立近代美術館) ,『残照』 (61,静岡県立美術館) 。
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中村岳陵 なかむら-がくりょう
1890-1969 大正-昭和時代の日本画家。
明治23年3月10日生まれ。川辺御楯(かわべ-みたて)に師事し,大正元年の文展に初入選。3年今村紫紅(しこう),速水御舟(はやみ-ぎょしゅう)らの赤曜会にくわわり,院展に出品。戦後は日展で活躍した。昭和36年朝日文化賞,毎日芸術大賞。37年文化勲章。昭和44年11月20日死去。79歳。静岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は恒吉。作品に「輪廻(りんね)物語」「気球揚る」など。
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中村 岳陵 (なかむら がくりょう)
生年月日:1890年3月10日
大正時代;昭和時代の日本画家
1969年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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