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日本画の団体。1898年東京美術学校に校長岡倉天心を排斥する騒動が起こると天心は職を辞し,同年秋,東京の谷中に日本美術院を設立し,主幹に橋本雅邦を据え,自分に従って美術学校を退いた作家ら26名を正員とした。〈美術院〉の称は大学における大学院を意識したものという。院には研究,制作,展覧の3部門を置き,機関誌《日本美術》を発行,開院と同時に日本絵画協会と連合で開いた展覧会には横山大観,下村観山,菱田春草,小堀鞆音,竹内栖鳳らが力作を出品し,世間の注目を集めた。見事な旗揚げであったが,数年ののちには早くも不振に陥る。これには正員たちの結束のゆるみ,天心の熱意の冷却,一部の画家の急進化に対する不評などが原因に挙げられる。ことに大観,春草が天心の示唆で試みた没線(もつせん)描法は,世間から朦朧(もうろう)派とののしられ西洋画の真似と批難され,院への作画の注文を激減させて財政の逼迫(ひつぱく)を招いた。しかし失敗に終わったにせよ,このとき彼らの取り組んだ実験が日本画に変革をもたらし,近代化を促進させたのである。1906年天心は日本画の研究所を茨城県五浦(いづら)に移して再起を期したが,天心が13年に没し,その努力も実らなかった。
天心の死は門下を奮起させた。大観,観山,木村武山は安田靫彦,今村紫紅,小杉未醒,笹川臨風,斎藤隆三らに図って美術院を立て直し,展覧会を第1回再興院展として開き成功した。彫刻と洋画の部も設けられた。こうして再興日本美術院は東洋的な理想主義に立って官展に対立する在野の一大勢力として美術界の一角を大きく占めることになる。ただし洋画部は20年に,彫塑部は61年に廃止された。ここを舞台に活躍した画家に小林古径,前田青邨,速水御舟,富田渓仙,荒井寛方,北野恒富,太田聴雨らがおり,中原悌二郎,戸張孤雁,橋本平八,藤井浩祐ら彫刻家の足跡も鮮やかである。現在は日本画のみで,展覧会を院展と称し,毎年秋に東京都美術館で開催している。
執筆者:原田 実
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日本画団体。その主催する展覧会を「院展」と略称する。岡倉天心(覚三)は1898年(明治31)3月、東京美術学校の校長を排斥され、同年10月10日東京谷中(やなか)初音町に日本美術院を開設。天心に殉じて東京美術学校を辞職した橋本雅邦(がほう)ほか17名の作家を中心に、日本画、彫刻、建築装飾、工芸における研究、制作、展覧の三部を設置し、機関誌『日本美術』を発行した。同時に日本絵画協会と連合して第1回展を開催、以後1903年までこの方式を継続。その間、横山大観、菱田春草(ひしだしゅんそう)らは西洋画法を積極的に摂取し、革新的傾向の作品を発表したが、一般には認められず日本美術院の経営不振を招くに至った。そしてついに1906年11月、美術院は茨城県五浦(いづら)に絵画研究所を移転、大幅な規模縮小を行い、その活動は有名無実となった。その後1913年(大正2)天心が没し、翌年大観が文展審査員より除かれたのを契機として、大観、下村観山(しもむらかんざん)を中心に今村紫紅(しこう)、小杉未醒(みせい)(放庵(ほうあん))、安田靫彦(ゆきひこ)らの若手作家が加わり、美術院の再興が図られた。1914年9月谷中上三崎南町に設立された研究所で開院式を挙行、続いて10月再興第1回展を開催。小林古径(こけい)、前田青邨(せいそん)、速水御舟(はやみぎょしゅう)などを次々と同人に加え、新日本画の樹立を目ざし、文展をしのぐほどの有力な在野団体として活動した。なお、再興院展発足に際し設けられた洋画部は1920年(大正9)に、彫塑部は61年(昭和36)に解散、第二次世界大戦中一時休会したが、現在は日本画団体として春秋二季に展覧会を開催。
[佐伯英里子]
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1898年(明治31)東京美術学校を辞職した岡倉天心を中心に,横山大観(たいかん)・菱田春草(しゅんそう)ら正員26人で結成された美術団体。はじめは彫刻・工芸の正員も含んでいたが,活動は日本画が中心。春秋2回展覧会を開催し,機関誌「日本美術」を刊行。1906年経営難のため茨城県北部の五浦(いづら)に移転した。13年(大正2)の天心の死去を機に,翌年大観・下村観山が中心となり日本美術院を再興。洋画や彫刻の部も設けられたが,洋画部は20年,彫塑部は61年(昭和36)に解散したため,以後日本画のみとなった。日本画の最有力団体。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…天才的で豪傑肌の天心の独断専行が一部の者の反感を買ったのである。職を退いた天心はその年秋,橋本雅邦をはじめ自分に従って学校を辞した教員らと谷中に日本美術院を創設,従来の運動をさらに活発に進めることにした。実際,開院と時を同じくし,日本絵画協会と連合で開いた共進会はすこぶる盛況であった。…
…しかしまた,人事をめぐる確執も最初から起こっている。旧派日本美術協会系の画家たちは予定された審査委員の顔ぶれが新派日本美術院系にかたよっているとして不満を表明し,第1回展に不出品を決めた。翌年には立場が逆になり,日本美術院系の画家は参加しなかった。…
…その後,橋本雅邦につき,さらに89年東京美術学校に入学。94年卒業と同時に同校助教授に任ぜられるが,98年岡倉天心が美術学校を辞して日本美術院を創立するに際し,橋本雅邦,横山大観らとともに母校を退き,美術院正員となる。以来,日本美術院が日本絵画協会と連合して開催した共進会に,洋風の陰影法と色彩感覚をとりいれた《闍維(じやい)》,大和絵研究に基づく《修羅道絵巻》,色彩によって空間を処理してゆく没線描法ともいうべき,いわゆる朦朧(もうろう)体の《大原の露》など,近代日本画の方向を暗示する作品を発表した。…
…かたわら帝国博物館の古画模写事業に携わり,また東京美術学校予科の授業を嘱託される。しかし,98年東京美術学校騒動の際に岡倉天心校長に殉じて退職し,同年天心,橋本雅邦を中心に創立された日本美術院の正員となる。東洋画の〈気韻〉の上に自然主義の立場にたつ外光派の色彩感覚を取りいれた没線(もつせん)彩画(刷毛を用いた色面描写)を横山大観とともに試み,《武蔵野》《菊慈童》《雲中放鶴》《釣帰》《蘇李訣別》《王昭君》などを発表。…
…このころより大観の号を用いはじめる。 98年東京美術学校において岡倉校長排斥の内紛がおこり,天心の辞職とともに野に下って日本美術院の創立に参加,その正員となる。第5回絵画共進会(第1回院展)に発表した《屈原》は,校長をやめた天心の心中を表したものであった。…
※「日本美術院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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