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中院親光 なかのいんちかみつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中院親光
なかのいんちかみつ

[生]延慶1(1308)
[没]天授3=永和3(1377).4.11.
南北朝時代の廷臣。源光忠の子。初名は光房。元徳1 (1329) 年参議。延元1=建武3 (36) 年足利尊氏の上洛を比叡山に避けた後醍醐天皇に従ったが,天皇が吉野に逃走したため,翌年尊氏に捕えられた。正平6=観応2 (51) 年足利義詮後村上天皇が一時和睦をした際,南朝に出仕,権中納言に任じられたが,翌年和が破れ,北朝が京都支配を回復すると,権中納言を剥奪された。その後,京にとどまり,正平 18=貞治2 (63) 年北朝で権中納言,文中1=応安5 (72) 年権大納言に進んだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中院親光 なかのいん-ちかみつ

1308-1377 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
延慶(えんきょう)元年生まれ。文保(ぶんぽ)2年後醍醐(ごだいご)天皇の侍従となる。元徳元年参議。天皇が吉野へのがれたのち建武(けんむ)4=延元2年足利方に捕らえられる。観応(かんのう)2=正平(しょうへい)6年足利尊氏・義詮(よしあきら)父子と後村上天皇が和睦(わぼく)したとき南朝に,のち北朝につかえ,正二位,権(ごんの)大納言となった。永和3=天授3年4月死去。70歳。初名光房

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朝日日本歴史人物事典の解説

中院親光

没年:永和3/天授3.4(1377)
生年:生年不詳
南北朝期の公卿。父は権大納言光忠。初名光房。徳治2(1307)年叙爵。文保2(1318)年に後醍醐天皇の侍従となり,親光と改名。元徳1(1329)年参議。建武3/延元1(1336)年足利尊氏の入京のとき,天皇に従い比叡山に逃れ,和談により天皇と共に帰京。天皇が吉野へ逃れたのち足利方に捕らわれた。観応2/正平6(1351)年足利尊氏,義詮父子が後村上天皇と和睦した際,南朝に仕え権中納言。その後の北朝復活とともに帰京。北朝に仕え,貞治2/正平18(1363)年権中納言。応安5/文中1(1372)年権大納言に任じられ,同7年辞任した。

(相馬万里子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中院親光
なかのいんちかみつ
(1308―1377)

南北朝時代の公卿(くぎょう)。権大納言光忠(ごんだいなごんみつただ)の子。初名光房(みつふさ)。後醍醐(ごだいご)天皇に仕え、正三位(しょうさんみ)参議まで上った。1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が西国より入洛(にゅうらく)した際、叡山(えいざん)に難を避けた天皇に供奉(ぐぶ)し、天皇の吉野潜幸ののち、足利方に捕らえられ、釈放されたが、そのまま昇進させられなかった。51年(正平6・観応2)の尊氏の南朝への降参によって、一時的に南朝による京都回復がなされたいわゆる正平一統(しょうへいいっとう)で南朝の後村上(ごむらかみ)天皇に権中納言に任ぜられたが、のち北朝に戻り、63年改めて権中納言に、72年(文中1・応安5)権大納言に任ぜられた。77年4月4日没。[飯倉晴武]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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