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丸子城 まりこじょう

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日本の城がわかる事典の解説

まりこじょう【丸子城/鞠子城】

静岡県静岡市にあった中世の山城(やまじろ)。駿河守護の今川氏に仕えていた斎藤安元が応永年間(1394~1428年)に築城した。そののちに、今川氏の拠点である駿河府中の西の入り口を守る城として使われ、武田氏が駿河に侵攻して以降は、田中城とともに駿河西部の攻略拠点として使われた。本丸は三角山(標高132m)の山頂南端に築かれ、そこから北に延びる尾根に二の曲輪(くるわ)、三の曲輪、北の曲輪が配され、北の曲輪からは東の尾根づたいに階段状に曲輪が配されていた。ちなみに、今川氏時代の丸子城の本丸は、のちの北の曲輪で、今川氏時代の城域は北城、武田氏による改修・拡張以降の城域は南城と呼ばれる。1476年(文明8)、応仁の乱で京都に出征した今川義忠(いまがわよしただ)が帰国途上、遠江(とおとうみ)で横地氏、勝間田氏らと合戦(塩買坂合戦)になり、流れ矢により戦死した。その跡目相続をめぐって、当時6歳の嫡子の龍王丸(のちの今川氏親)と今川範忠の叔父の小鹿新五郎範満(おしかしんごろうのりみつ)の間に争いが起こり、今川氏は内紛状態となった。このとき、今川氏に食客として仕えていた伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(のちの北条早雲)の手引きにより、駿府館(静岡市、のちの駿府城)を逃れた龍王丸とその生母の北川殿は丸子に館を構えた。以降、丸子城はこの館の詰城としての役割を果たすことになった。この内紛は、龍王丸が成人するまでは小鹿範満が政務を代行し、龍王丸の成人後に家督を相続させるという約束で和解したが、範満は龍王丸成人後も家督を譲らなかったため、新九郎は1487年(長享1)、駿府館を急襲して範満を討ち取り、龍王丸は正式に家督を相続し氏親を名乗った。このときの功績により、新九郎に与えられたのが興国寺城(沼津市)である。今川家の当主となった氏親は1493年(明応2)、街道が交差する交通の要衝である丸子城を重視して斎藤氏から城を譲り受け、駿府館の支城として整備した。1554年(天文23)、甲斐の武田信玄は甲駿相三国同盟を破棄して駿河に侵攻し、駿府館の今川氏真を掛川城に追い払い、駿河を併呑した。このとき、丸子城には重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)を城将として配置した。その後、信玄の死後、屋代勝長が入城し、駿府防衛の要として丸子城の大規模な拡張・整備を行った。1581年(天正9)、武田氏と徳川氏の高天神城をめぐる攻防戦に際して、丸子城は徳川方に無血開城し、以後、徳川氏の属城となった。1590年(天正18)、徳川家康の関東移封に伴い、丸子城は廃城となった。現在、城跡には、曲輪、土塁、空堀、三日月堀、堀切、竪堀、枡形、馬出しなどの遺構が良好な状態で現存している。大鑢曲輪(捨て曲輪)と三日月堀周辺の縄張りは武田氏によるもので、武田氏の城郭らしい特徴を残している。JR東海道線・東海道新幹線静岡駅からバス約30分。誓願寺(せいがんじ)前から丸子の里自然歩道を使って徒歩約15分で、三角山山頂の本丸跡に至る。誓願寺は源頼朝が建立した寺で、丸子城をめぐる戦いで焼失したが、武田信玄が再建した。ここには豊臣秀吉の重臣だった片桐且元(かたぎりかつもと)の墓がある。◇鞠子城とも記される。

出典|講談社
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