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丸山作楽 まるやま さくら

美術人名辞典の解説

丸山作楽

政治家・勤王家。江戸生。幼名勇太郎、初名正虎のち正路作楽佐久良、号は神習処・素行・磐之屋等。島原藩士丸山正直の長男。漢学洋学を修め、国学を平田鉄胤に学び影響され、勤王の志士と共に国事に奔走する。明治20年の米外遊後、元老院議官貴族院議員となった。歌は万葉調で、天田愚庵正岡子規への影響は大きい。明治32年(1899)歿、60才。

出典 (株)思文閣美術人名辞典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

丸山作楽 まるやま-さくら

1840-1899 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)11年10月3日生まれ。肥前島原藩(長崎県)藩士丸山正直の長男。平田銕胤(かねたね)にまなぶ。明治2年外務大丞として樺太(からふと)でロシアと交渉。4年征韓論に同調して投獄された。15年立憲帝政党を組織。憲法,皇室典範の制定に参画。元老院議官,貴族院議員。仮名文字論者,歌人としても知られた。明治32年8月19日死去。60歳。名は正路。号は東海,盤之屋(いわのや)など。著作に「盤之屋歌集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

丸山作楽

没年:明治32.8.18(1899)
生年:天保11.10.3(1840.10.27)
島原藩士,明治時代の政治家。幼名勇太郎。正直の長男,母は千代。和・漢・洋の諸学に通じ,特に国学では師平田銕胤の継承者ともいわれ,諸国の志士と交遊した。明治2(1869)年神祇官権判事として新政府に出仕。外務大丞に転じて樺太に出張し,ロシアと漁場などについて交渉した。翌年帰京してのちは,征韓論をはじめ対外強硬論を主張する。尊攘派の残党テログループとも接触を持ち,同4年投獄された。13年に出獄し,15年には国権派の立憲帝政党を組織して民権派と対決した。のち元老院議官,貴族院議員を歴任した。歌人でもあり,明治前半期の保守派知識人として有名である。

(佐々木克)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

まるやまさくら【丸山作楽】

1840‐99(天保11‐明治32)
明治期の保守的政治家。島原藩士の出身。漢学・国学を学ぶ。尊攘派の志士として奔走。維新後官途につき,1869年(明治2)樺太に出張して漁場などについてロシアと交渉をしたが,兵力なき談判の無為を痛感し,対露強硬論を主張。帰国後征韓論を唱えて当局の忌諱にふれ,長崎の獄につながれた。出獄後,自由民権運動に対抗して忠愛社結成,《明治日報》を発行し,ついで82年福地源一郎らと立憲帝政党を結成。のち宮内省図書助,元老院議官,貴族院議員を歴任。

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世界大百科事典内の丸山作楽の言及

【帝政党】より

…立憲帝政党が正式名。1882年3月,政府当局の意をうけて《東京日日新聞》の福地桜痴(源一郎),《明治日報》の丸山作楽,《東洋新報》の水野寅次郎を中心に結成された。福地起草の綱領では,国体の保守,国権の拡張,漸進主義を唱え,国会開設の詔の遵守,欽定憲法主義,天皇主権説,二院制,制限選挙制,天皇の国会議決不認可権などを主張,反民権主義に立った。…

※「丸山作楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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