丸山作楽 (まるやまさくら)
生没年:1840-99(天保11-明治32)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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丸山 作楽
マルヤマ サクラ
- 肩書
- 貴院議員(勅選)
- 生年月日
- 天保11年10月3日(1840年)
- 出生地
- 江戸・芝三田四国町
- 経歴
- 坊主見習いとなり、その間平田鉄胤に学ぶ。文久、元治の頃は国事に奔走し、慶応2年入獄する。明治元年官途に就いたが、5年内乱のかどで終身禁錮刑に処せられ、13年恩赦で出獄。忠愛社をおこして「明治日報」を創刊。20年外遊。元老院議官、貴院議員などを歴任。歌集に没後の32年刊行された「盤之屋歌集」がある。
- 没年月日
- 明治32年8月19日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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丸山作楽
没年:明治32.8.18(1899)
生年:天保11.10.3(1840.10.27)
島原藩士,明治時代の政治家。幼名勇太郎。正直の長男,母は千代。和・漢・洋の諸学に通じ,特に国学では師平田銕胤の継承者ともいわれ,諸国の志士と交遊した。明治2(1869)年神祇官権判事として新政府に出仕。外務大丞に転じて樺太に出張し,ロシアと漁場などについて交渉した。翌年帰京してのちは,征韓論をはじめ対外強硬論を主張する。尊攘派の残党テログループとも接触を持ち,同4年投獄された。13年に出獄し,15年には国権派の立憲帝政党を組織して民権派と対決した。のち元老院議官,貴族院議員を歴任した。歌人でもあり,明治前半期の保守派知識人として有名である。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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丸山作楽 まるやま-さくら
1840-1899 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)11年10月3日生まれ。肥前島原藩(長崎県)藩士丸山正直の長男。平田銕胤(かねたね)にまなぶ。明治2年外務大丞として樺太(からふと)でロシアと交渉。4年征韓論に同調して投獄された。15年立憲帝政党を組織。憲法,皇室典範の制定に参画。元老院議官,貴族院議員。仮名文字論者,歌人としても知られた。明治32年8月19日死去。60歳。名は正路。号は東海,盤之屋(いわのや)など。著作に「盤之屋歌集」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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丸山 作楽 (まるやま さくら)
生年月日:1840年10月3日
明治時代の政治家;歌人。貴族院議員
1899年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の丸山作楽の言及
【帝政党】より
…立憲帝政党が正式名。1882年3月,政府当局の意をうけて《東京日日新聞》の福地桜痴(源一郎),《明治日報》の丸山作楽,《東洋新報》の水野寅次郎を中心に結成された。福地起草の綱領では,国体の保守,国権の拡張,漸進主義を唱え,国会開設の詔の遵守,欽定憲法主義,天皇主権説,二院制,制限選挙制,天皇の国会議決不認可権などを主張,反民権主義に立った。…
※「丸山作楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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