丸山幹治(読み)まるやまかんじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「丸山幹治」の意味・わかりやすい解説

丸山幹治
まるやまかんじ
(1880―1955)

明治・大正・昭和期の新聞記者。号は侃堂(かんどう)。明治13年5月2日長野県生まれ。東京専門学校(現、早稲田(わせだ)大学)卒業。新聞『日本』記者、『京城(けいじょう)日報』編集長を経て、1909年(明治42)大阪朝日新聞社に入社。通信部長などを務めたが、1918年(大正7)白虹(はっこう)筆禍事件により退社。翌1919年、鳥居素川(そせん)の創刊した『大正日日新聞』に参加したが、経営破綻(はたん)、『読売新聞』に移る。1928年(昭和3)『大阪毎日新聞』に転じ、同紙のコラム「余録」を執筆し、高い評価を得た。昭和30年8月13日死去。真男(まさお)は二男。

[有山輝雄]

『『余録二十五年』(1954・毎日新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「丸山幹治」の解説

丸山 幹治
マルヤマ カンジ

明治〜昭和期のジャーナリスト,政治評論家 毎日新聞「余録」コラムニスト



生年
明治13(1880)年5月2日

没年
昭和30(1955)年8月16日

出生地
長野県

別名
号=侃堂(カンドウ)

学歴〔年〕
東京専門学校(現・早稲田大学)〔明治34年〕卒

主な受賞名〔年〕
新聞文化賞〔昭和29年〕

経歴
日露戦争の旅順包囲戦に日本新聞社の従軍記者を務め、戦争の悲惨さを報じて軍部の怒りを買う。明治42年大阪朝日新聞社に入社、「天声人語」を担当したが、大正7年の米騒動をめぐる筆禍事件(白虹事件)のため、大山郁夫、長谷川如是閑らとともに退社。その後、読売新聞、中外新報、京城日報を経て、昭和3年には大阪毎日新聞社に入り、コラム「硯滴」を執筆。11年東京日日新聞(現・毎日新聞)に移っても「余録」と名を変えたコラムを合わせて25年間担当した。朝日「天声人語」の荒垣秀雄、読売「編集手帳」の高木健夫と並び称される。著書に「副島種臣伯」「硯滴余録」「余録二十五年」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「丸山幹治」の解説

丸山幹治 まるやま-かんじ

1880-1955 明治-昭和時代のジャーナリスト。
明治13年5月2日生まれ。丸山真男(まさお)の父。大正7年米騒動の際の白虹(はっこう)筆禍事件で長谷川如是閑(にょぜかん)らと大阪朝日新聞を退社。昭和3年から「大阪毎日新聞」のコラム「硯滴(けんてき)」,11年「東京日日新聞」にうつって「余録」を計25年間かきつづけた。昭和30年8月16日死去。75歳。長野県出身。東京専門学校(現早大)卒。号は侃堂(かんどう)。著作に「丁稚(でっち)制度の研究」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「丸山幹治」の解説

丸山 幹治 (まるやま かんじ)

生年月日:1880年5月2日
明治時代-昭和時代のジャーナリスト
1955年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の丸山幹治の言及

【丸山真男】より

…思想史家・政治学者。ジャーナリスト丸山幹治の次男として大阪に生まれる。1937年(昭和12)東京帝国大学法学部を卒業後,71年の辞職に至るまで同学部で教鞭をとる。…

※「丸山幹治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android