漢字表記としては丁稚・丁児・調市・童奴などがある。同義の語として「こぞう」があるが、「随・守貞漫稿‐四」に「奉公人〈略〉民間の奉公に亦差あり、工商家等童形に仕ゆる者を京坂にて丁稚丁児とも云。ともにでっちと訓ず、江戸にては小僧と云」とある。
商工業の家に年季奉公をする幼年者をいう。職人の家では弟子,徒弟とも称した。《大言海》によると〈でっち〉は弟子を〈でっし〉といったのから転じた語とされる。丁稚が多く使用されたのは江戸時代で,明治時代以後はしだいに変質し,いわゆる近代的な商業使用人となった。丁稚入りはふつう10歳前後で,親類,縁者の子弟またはその推薦によるものや,あるいは取引先の紹介によるものもあった。また口入屋の手を経て雇い入れるものもあった。両替,呉服,太物(ふともの),肥物,薬種,綿,油,塩,米などの代表的大商人の間ではまず別家(べつけ)中の子弟をとる方針で,これを譜代,子飼(こがい)といった。雇入れの形式としては親もと,親類または宿もとの連判保証状である請状(うけじよう)を出させ,入念のうえにも大事をとったが,別家の子弟は請状を要しなかった。初めは主人のお供,子守,ふき掃除など家内の雑役に使用され,やや大きくなれば商用の走使いをした。そのころはまだ本名を呼ばれず,ただ〈こぞう〉とか〈ぼうず〉,一般には〈こども〉と呼ばれた。15~16歳になると半元服と称し,角(すみ)前髪にし,改めて本名の頭文字を取って,これに〈吉〉あるいは〈松〉の字をつけて呼ぶのが常であった。この時代になるとまず半人前とみなされ,荷造りそのほか荷物,金銭の授受など手代(てだい)の業務を手伝わせたが,なお家事の雑役をも兼ねた。主人は丁稚の衣食住はもとより,その教育,監督,病気の治療いっさいの責任を負う代りに,丁稚は無給で,ただ盆と正月の2回,主人から綿服,帯,じゅばん,前垂れ,下駄の仕着せと若干のこづかい銭を与えられるにすぎなかった。しかも酒,タバコは禁ぜられ,衣服は必ず木綿物を着,羽織の着用はとめられ,履物は雪駄,木履のほか,駒下駄,表つきの下駄を履くことを許されず,夜は業務の暇に読み書きそろばん,手習いをした。丁稚は17~18歳で元服し,連名の請状をいれて手代となり,さらに10年前後勤務ののち,番頭に昇格した。
→奉公人
執筆者:宮本 又次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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子供とも。江戸時代,商家に年季奉公する奉公人のうち最下位に位置する。一般に商家の奉公人は,子飼いの場合,親類・縁者の子弟などを中心に,10歳前後から店で住込み奉公を始めるが,はじめは丁稚として家内の雑役や走り使いなどに使役された。読み書き・算盤など商人に必要な基礎知識の習得も行われたが,通常は無給で,仕着(しきせ)と小遣い銭が支給される程度であった。ふつうは17~18歳で手代となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…生みのオヤが有力な家の家長やその妻やアトトリにオヤとなってもらって,無力な家に生まれた子がそのコ(子分)となる社会的事実は,ムラやマチの慣習や儀礼におけるオヤコナリ(親子成り)の仕方に見いだされた。家の内では家長と家の成員の関係としてのオヤコに,子方・子分・子供衆(商家の住込み子飼いの丁稚(でつち))もまた子と同様にコとして含まれる点に注目すべきで,家の拡大展開による本家・分家(親族分家と非親族分家=奉公人分家,別家ともいう)の関係においてもこの原則はあった。本家・分家間の同族の関係は,明治の民法以来,法律上本家・分家とされたものとは違って,親子や養親・養子,また嫁・婿の範囲に限定されず,同族関係とオヤコ関係(親分・子分関係)が合致していたのが原型であり,のちに両者が分化された。…
…町奉行所の同心の配下にも小者があって,目明しと同様に犯人の捜査・逮捕にあたった。また町家に奉公した小僧,丁稚(でつち)なども小者と呼んだ。【北原 章男】。…
※「丁稚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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