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鳥居素川 とりい そせん

デジタル大辞泉の解説

とりい‐そせん〔とりゐ‐〕【鳥居素川】

[1867~1928]ジャーナリスト。熊本の生まれ。本名、赫雄(てるお)。大阪朝日新聞編集局長となり、民本主義論陣を張ったが、大正7年(1918)筆禍事件で退社。のち大正日日新聞を創刊。

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百科事典マイペディアの解説

鳥居素川【とりいそせん】

新聞記者。熊本生れ。本名赫雄(てるお)。《日本新聞》を経て,池辺三山推挙により,1897年《大阪朝日新聞》に入社,1916年編集局長に就任。戦闘的な自由主義者で,長谷川如是閑らを擁して,寺内正毅内閣攻撃の論陣を張った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鳥居素川 とりい-そせん

1867-1928 明治-大正時代の新聞記者。
慶応3年7月4日生まれ。「日本」新聞をへて大阪朝日新聞社に入社。大正5年編集局長となり,寺内内閣の非立憲政治攻撃の論陣をはる。7年白虹(はっこう)事件で部下の長谷川如是閑(にょぜかん)らとともに退職。8年「大正日日新聞」を創刊するが経営に失敗,9年解散した。昭和3年3月10日死去。62歳。肥後(熊本県)出身。独逸(ドイツ)学協会学校中退。本名は赫雄(てるお)。別号に素卿,玄兎

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世界大百科事典 第2版の解説

とりいそせん【鳥居素川】

1867‐1928(慶応3‐昭和3)
明治・大正期の新聞記者。本名は赫雄(てるお)。号は素川,玄兎。熊本県出身。1890年《日本》に入社,日清戦争の戦況報道により文名を高めた。97年《大阪朝日新聞》に入社,以後同紙の幹部記者として言論を指導した。特に大正期には長谷川如是閑等を傘下に擁し,藩閥攻撃の急先鋒であった。このため1918年8月米騒動の際に,同紙は寺内内閣の言論弾圧にあい(白虹事件),鳥居ら編集幹部は引責退社した。翌年《大正日日新聞》を創刊したが,経営に失敗した。

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大辞林 第三版の解説

とりいそせん【鳥居素川】

1867~1928) ジャーナリスト。熊本県生まれ。名は赫雄てるお。大阪朝日新聞社に入り、編集局長となったが、1918年(大正7)「朝憲紊乱びんらん」記事によって退社。その後大正日々新聞に論陣を張った。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鳥居素川
とりいそせん

[生]慶応3(1867).7.4. 肥後
[没]1928.3.10. 芦屋
大正デモクラシー期の新聞記者。本名は赫雄 (てるお) 。郷里の済々黌を出て,1884年上京し,独逸協会学校卒業間近に中退。『日本新聞』に入社して日清戦争の従軍記者を務めた。 1897年『大阪朝日新聞』に入社し,やがて主筆になった。 1916年 10月の寺内内閣の大命降下のいきさつの不当をつき,西原借款,シベリア出兵などを厳しく批判した。しかも 1918年8月3日に米騒動が火をふくと,寺内内閣は新聞紙法を利用して真相の報道を一切禁止したので,「言論擁護,内閣弾劾」をスローガンとする新聞記者青年大会が各地で開かれ,素川の率いる『大阪朝日新聞』もその先頭に立った。そこで寺内内閣は,いわゆる白虹 (はっこう) 事件を起こし,『大阪朝日新聞』を廃刊処分にするとおどし,ついに素川を辞職させた。その後,1919年 11月に『大正日日新聞』を大阪で創刊したが,翌年6月退社し,芦屋に隠棲した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鳥居素川
とりいそせん
(1867―1928)

明治・大正期の新聞記者。本名赫雄(てるお)。別号は素卿(そけい)、玄兎(げんと)。慶応(けいおう)3年7月4日熊本藩士の家に生まれる。独逸(ドイツ)協会専門学校を中退し、上海(シャンハイ)の日清(にっしん)貿易研究所に入ったが、病を得て帰国。1890年(明治23)『日本』紙の記者となる。1897年大阪朝日新聞社に入社ししだいに頭角を現す。1914年(大正3)編集局長に就任。部下には長谷川如是閑(にょぜかん)、大山郁夫(いくお)らを擁し、民本主義を強力に推進した。とくに寺内正毅(まさたけ)内閣の非立憲性を激しく攻撃した。しかし1918年8月に白虹(はっこう)筆禍事件が発生し、10月編集幹部とともに退社した。翌1919年『大正日日新聞』を創刊したが、朝日、毎日両新聞社の営業妨害などのため経営破綻(はたん)し、わずか8か月で解散した。以後は新聞界を引退。昭和3年3月10日死去。[有山輝雄]
『伊豆富人稿「鳥居素川」(『三代言論人集 7』所収・1963・時事通信社) ▽新妻莞著『新聞人・鳥居素川』(1969・朝日新聞社)』

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世界大百科事典内の鳥居素川の言及

【朝日新聞】より

…また1904年に二葉亭四迷,07年には夏目漱石が入社し,次々と作品を発表した。大正政変に際しては憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を攻撃,18年の米騒動では悪徳業者を批判するとともに寺内正毅内閣の施政を非難したが,《大朝》は〈白虹(はつこう)事件〉の筆禍にあい,鳥居素川編集局長をはじめ長谷川如是閑大山郁夫らが退社した。この間,1915年には《大朝》が夕刊の発行を開始(《東朝》は1921年),地方版の急速な整備も加わって紙面の充実が進んだ。…

【白虹事件】より

…《大阪朝日新聞》が1918年に引き起こした筆禍事件。当時の《大阪朝日新聞》は,鳥居素川編集局長のもとに長谷川如是閑,大山郁夫らを擁し,いわゆる〈大正デモクラシー〉の最先頭に立つ言論活動を行っていた。とくにシベリア出兵,米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく攻撃していた。…

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