久田村(読み)くたむら

日本歴史地名大系 「久田村」の解説

久田村
くたむら

[現在地名]厳原町久田

府中ふちゆう浦の南にある久田浦に臨む。北西有明ありあけ(五五八・二メートル)から南西の舞石めえしノ壇山(五三六・四メートル)にかけて高い嶺が続き、東西の分水嶺となる。南は山を越えて尾浦おうら安神あがみ久和くわなどに通じ、内山うちやま内院ないいん豆酘つつ方面に至る山道もある。享保二〇年(一七三五)枝郷の堀田の禿ほつたのはげさえで巨大な青銅矛が発見され、見取図も作製された(津島紀事)。久田と堀田の中間の円山まるやまに祀られるたけノ神を「延喜式」神名帳の下県郡一三座の一つ「都々智ツヽチノ神社」に比定する説がある。中世は与良よら郡のうち。応永一二年(一四〇五)九月二三日の宗貞茂書下(馬廻判物帳)に「与良郡内久田かしい」とみえ、当地の山手公事などをめぐって給人と代官の間で相論となったが、先例にしたがい田原隼人佐に安堵された。


久田村
ひさだむら

[現在地名]岩崎村久田

西は正道尻しようどうじり村、南は森山もりやま村、北に笹内ささない川の日本海に注ぐ河口を隔てて岩崎村がある。

西津軽郡史」によれば、正道尻村の支村で上野林うわのばやしともよばれ、現在も通称を上野というという。「津軽興業誌」によれば寛永元年(一六二四)「正道尻佐々内上野派」の黒印状が北村久左衛門に下されたとある。また同書によれば、久田村の社司斎藤家系図に「天和元年笹森勘解由左衛門久田村切開」とあり、天和元年(一六八一)の開村という。


久田村
きゆうでんむら

[現在地名]柳田村久田

町野まちの川の支流に沿い、北はすずみね村へ続く。中心集落の上出かみで・下出、その上流山裾の伍田ごんた(五田・郷の田)、さらに上流に平床ひらとこがあるという(鳳至郡誌)。村名は中世の給田から起こったという。正保郷帳では高三三〇石余、田方一六町余・畑方六町余、新田高四七町余。承応三年(一六五四)の村御印では高三七八石余、免四ツ四分(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三九七石、免五ツ一分、小物成は山役一九六匁・漆役二匁がある(三箇国高物成帳)


久田村
きゆうでんむら

[現在地名]余目町久田

杉浦すぎのうら村の北にある。永禄三年(一五六〇)の開村と伝えられ、近世には北方門田かどた(現酒田市)の枝郷。酒田街道が北へ通る。寛永元年庄内高辻帳に「門田・久田共ニ」とみえ、高一千九〇石余。正保郷帳では久田村とあり田方二二四石余・畑方三六石余、旱損で、ほかに新田がある。寛文八年(一六六八)には高二六〇石余のうち一一二石余が他村からの入作となっている(「村地境書付之事」余目町史)。翌九年の検地帳(久田区有文書)では高二六一石余・田畑反別二二町七反余、名請人二五名。


久田村
くつたむら

[現在地名]出雲崎町久田

はな村の北東に続く海岸集落。東は大寺おおでら村・乙茂おとも村。正保国絵図に高一九四石で幕府領。旧高旧領取調帳では高一八八石九斗余で与板藩領。地内の久田山に海岸一帯を視界におさめる小規模の城跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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