酒田街道
さかたかいどう
鶴ヶ岡城下と酒田を結ぶ街道。街道名の初見は年代記(尾形文書)明和五年(一七六八)条で、「酒田街道、道幅一丈と被仰付候」とある。別名内郷街道ともいい(天保一三年「庄内海岸打払絵図」鶴岡市郷土資料館蔵など)、鶴ヶ岡では横山道(天保一二年「城下絵図」同館蔵など)、酒田では鶴岡街道(明和七年「酒田絵図」同館蔵など)、また押切(現東田川郡三川町)以北の新道を刈取街道(元禄九年「押切谷地絵図」致道博物館蔵)とも称した。
経路は鶴ヶ岡城下北東部大宝寺(下大宝寺)村から道形村・文下村を経て赤川を舟で横山村(現三川町)に渡り、土堤上を北上して押切村の中央で右折、落合村(現東田川郡余目町)で京田川を渡舟し、門田村(現酒田市)を通って新堀村(現同上)から最上川を舟で渡る。対岸の五丁野谷地の中道を北上し佐渡橋を渡って小牧村(現同上)と四ッ興屋村(現同上)の中間地点で最上街道と交わる。酒田までの全行程は七里二九町五〇間(庄内要覧)。しかし正保庄内絵図(本間美術館蔵)では、押切村からはんの木谷地に沿ってさらに北上して大淵村(現酒田市)付近で京田川を渡舟、門田村へ出ている。新堀以北は小牧村を経由。また大宝寺・文下・押切・大淵・門田・小牧各村に一里塚を記す。新田村の出現などに伴い元禄九年(一六九六)頃までの間に路線が変更していた(押切谷地絵図)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 