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久留里城 くるりじょう

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日本の城がわかる事典の解説

くるりじょう【久留里城】

千葉県君津市にあった山城(やまじろ)。標高180mの城山の山頂に築かれていた。甲斐の武田氏から分かれた真理谷氏(上総武田氏)の城。のちに安房の里見義堯が攻略して居城(本城)とした。江戸時代には久留里藩の藩庁が置かれていた。上総武田氏の祖武田信長は1455年(康正1)に上総守護代となり、その翌年に真里谷城(まりがやつじょう)(木更津市)、庁南城(長生郡長南町)を築いたが、久留里城はその直後に築かれ、信長が三男・信房にこの城を与えたと推定されている。この城は「古久留里城」と呼ばれている。その後、武田氏に内紛があり、一帯は里見氏の所領となった。里見氏の当主の里見義堯は古久留里城とは峰続きの場所に新城を築城し、稲村城(館山市)から居城を移し、里見氏の本城とした。同城は「新久留里城」とも呼ばれる。義堯は長子の義弘を佐貫城に配置して上総国支配を固めたが、義堯・義弘父子は1538年(天文7)の第一次国府台合戦で、小弓公方足利義明に味方して、北条氏、古河公方、真理谷氏の連合軍に敗れ一時期本拠の安房に退去したが、久留里城は里見氏の本城として存続した。1554年(天文23)から翌年にかけて、北条綱成率いる2万の北条勢の包囲にあったが義堯・義弘父子はこれを撃退し、1560年(永禄3)に北条氏が再び侵攻してきた際には、長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請し、これが謙信の関東出陣のきっかけとなった。1564年(永禄7)の第二次国府台合戦で義弘は北条氏に大敗して久留里城を奪われたが、その後間もなく奪回。その後の北条氏の攻勢にも耐え抜いた。しかし、1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)の後、秀吉により惣無事令違反を理由に上総の里見領が没収されたことから、久留里城も召し上げられ、関東に入部した徳川家康に与えられた。家康は同城に大須賀(榊原)忠政を入城させたが、そののち、土屋、酒井氏などが相次いで入封した。この時期に、城山の麓まで城域が広げられて、近世城郭として整備された。土屋氏が1679年(延宝7)に改易となり廃藩・廃城となったが、1742年(寛保2)に譜代大名の黒田直純が2万石で移封され、久留里藩は復活し、城の再建も行われた。この後、久留里城は黒田氏を城主として明治維新を迎え、1872年(明治5)の廃城令により破却処分となり、その歴史に幕を閉じた。現在、城跡は城山公園になっており、曲輪(くるわ)、堀切、井戸、天守台などの遺構が残っている。なお、天守台のあった場所の隣に模擬天守が建っているが、この天守はかつての久留里城の天守を復元したものではない。JR久留里線久留里駅から徒歩約30分。◇雨城、霧降城、浦田城とも呼ばれる

出典|講談社
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