日本歴史地名大系 「九重村」の解説
九重村
くじゆうむら
慶長検地高目録によると村高六三石余、小物成一・九五七石。川内組に属し、和歌山藩新宮領。天保郷帳では高一七七石余で大幅に増加している。このうちには北山川対岸の
九重村
くじゆうむら
紀ノ川中流域右岸の葛城(和泉)山脈の南斜面にある。南は
慶長検地高目録によれば村高三二二石余、小物成二・五〇五石。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)によると、田畑二二町余、高三二八石余、小物成は茶・桑・紙木で七・一二九石、家数三七(本役二一・半役九など)、人数二三二、馬三、牛一四。幕末には中組に属した。正徳五年(一七一五)八月五日付の九重・嵯峨谷・上中・下中・竹尾五ケ村山論ニ付吟味批判之趣(九重区有文書)によると、当村と嵯峨谷村との間で村境や村内通行をめぐって、当村と下中・上中両村との間では村境に関して、上中村民の当村内入作の際の下木伐採についてなどの争いがあり、同年郡奉行小山田庄助によって、村境は書類で決定できないものは両村立会いで決めること、村内通行は自由であること、入作者は当村分の下木をとってはならないこと、などが定められた。
九重村
くのうむら
九重村
くじゆうむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報