九重村(読み)くじゆうむら

日本歴史地名大系 「九重村」の解説

九重村
くじゆうむら

[現在地名]熊野川町九重、三重県南牟婁郡紀和きわ百夜月ももよづき

玉置口たまきぐち村の西南にあり、同村との間に大和国竹筒たけとう(現奈良県吉野郡十津川村)がある。西は標高五〇〇―六〇〇メートルの山が連なり、東を北山きたやま川が南流。南に九重谷、北に大宿谷おおやどりがあり、村の東北、北山川の東に小名百夜月、大宿谷の奥に小名大平おおだいらがある。

慶長検地高目録によると村高六三石余、小物成一・九五七石。川内組に属し、和歌山藩新宮領。天保郷帳では高一七七石余で大幅に増加している。このうちには北山川対岸の花井けい(現三重県南牟婁郡紀和町)が含まれる。なお近世後期の「新宮領分見聞記」では当村は華井けい村八〇石余のうちとされている。慶応四年(一八六八)の紀勢和州御領分御高村名帳(「南紀徳川史」所収)には九重村が一一二石余、花井村が六五石余とある。


九重村
くじゆうむら

[現在地名]高野口町九重

紀ノ川中流域右岸の葛城(和泉)山脈の南斜面にある。南は上中かみなか村、西は嵯峨谷さがたに村。村名は、文永八年(一二七一)五月三日の入寺宗誓御影堂水田寄進状(続宝簡集)に「在金剛峯寺御領河北方久住村字堀越」とみえ、高野山領官省符かんしようふ庄上方に属していた。

慶長検地高目録によれば村高三二二石余、小物成二・五〇五石。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)によると、田畑二二町余、高三二八石余、小物成は茶・桑・紙木で七・一二九石、家数三七(本役二一・半役九など)、人数二三二、馬三、牛一四。幕末には中組に属した。正徳五年(一七一五)八月五日付の九重・嵯峨谷・上中下中・竹尾五ケ村山論ニ付吟味批判之趣(九重区有文書)によると、当村と嵯峨谷村との間で村境や村内通行をめぐって、当村と下中・上中両村との間では村境に関して、上中村民の当村内入作の際の下木伐採についてなどの争いがあり、同年郡奉行小山田庄助によって、村境は書類で決定できないものは両村立会いで決めること、村内通行は自由であること、入作者は当村分の下木をとってはならないこと、などが定められた。


九重村
くのうむら

[現在地名]安来市九重町

早田そうだ村の南に位置し、九重山(六七・五メートル)の西側の伯太はくた川沿いに集落がある。「雲陽誌」は「和名鈔に口縫とあるは斯村なり、九重・清水・早田・佐久保辺を口縫郷とす」と記し、口縫くぬい郷と村名の類似を示唆している。正保国絵図に村名がみえるが、安来宮内やすぎみやうち村からきた山陰道が当村を通り赤江あかえ村へ抜ける位置に描かれていて、不審である。元禄十年出雲国郷帳によると高二〇九石余、うち永荒が三七石余あり残高一七一石余。寛文四年(一六六四)には本田高一七一石余・新田高二〇石余。


九重村
くじゆうむら

[現在地名]中村市坂本さかもと

坂本村の西、中筋なかすじ川右岸にあり、坂本村の枝郷。「具重」とも書く。天正一七年(一五八九)の芋生村坂本村具重村地検帳によると具重村の検地面積二町八反余、大半が非有斎の給地と「足摺領」(金剛福寺領)。屋敷数一三うち居屋敷六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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