五条村
ごじようむら
[現在地名]五條市本町一―三丁目・五条一―四丁目
宇智郡中央部、吉野川北岸の緩傾斜面に立地。伊勢(紀州)街道の宿場町。「大和名所図会」には「五条里は宇智郡の駅にして四方の旅客ハここにゆき、遠近の産物もこゝに交易して朝市夕市とて商家多く郷の賑ひいはん方なし」と記す。五条は条里遺称で河北五条の地か。
慶長郷帳では「すへ(須恵)五条」とみえ、村高四四五・五五石。領主は五条二見藩主松倉重政。元和二年(一六一六)幕府領(代官宗岡弥右衛門)に編入され、同五年郡山藩(松平忠明)領となる。元和郷帳では「すへ五条」から分離独立、村高は三〇八・九六一石。延宝七年(一六七九)以降幕府領となる。郡山藩時代の二割半無地高増政策で村高は三八一・二四四石となる。
五条村が大きく発展するのは筒井家三家老家の出身松倉豊後守重政が二見城主に任ぜられて以来である。寛永一六年(一六三九)正式に五条村に伝馬所がおかれ、吉野郡奥地の物資の集散・仲継の役割を果すようになった。伝馬所設置のいきさつは五条御伝馬所覚書(中尚三文書)に詳しい。
<資料は省略されています>
寛永八年五条村商人らが幕府へ伝馬所設立を願出て、同一六年郡山藩によって公認され、宿場町として発展することになる。
五条村
ごじようむら
[現在地名]東大阪市五条町・河内町・本町
生駒山地西麓の扇状地上にある。北は出雲井村、南は客坊村、西は喜里川村。五条の名は条里制の五条にあたるためである。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に、山城石清水八幡宮領林灯油薗の散在地として「伍条山田里」がみえる。元弘二年(一三三二)二月二〇日の藤原康政譲状案(水走文書)には「五条郷公文職同郷務」とみえる。また建長四年(一二五二)六月三日の藤原康高譲状案(同文書)によると五条に「六間壱面寝殿一宇」の水走氏の屋敷があった。延元三年(一三三八)一〇月日付高木遠盛軍忠状(和田文書)によると、前年八月一六日に南朝方の高木遠盛が北朝軍と五条河原で戦い、敵を八尾城(現八尾市)に追いこんだ。
五条村
ごじようむら
[現在地名]吉野町五条
現吉野町の東端に位置し、東は七条村(現上板町)、南は名西郡瀬部村(現同上)、西は西条村、北は宮川内谷川を挟み引野村・鍛冶屋原村(現上板町)。撫養街道が通る。板野郡に属し、慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に五条とみえる。同二年の分限帳では原善左衛門が当村のうち二二八石余、前田次兵衛が一八四石余、吉川豊右衛門が一七一石余、落合甚太郎が一三八石、稲田四郎左衛門が五七石、河村喜八郎が五〇石を知行。翌三年には津田勝三郎が替地として当村の一七一石・百姓七人などを与えられた。正保国絵図では高八三一石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方六二二石余・畠方二〇九石余、水損の注記がある。慶安三年(一六五〇)の蜂須賀光隆領分高并当物成帳によると、当村の四二石余が蜂須賀光隆領(部屋住領)で、物成一六石余、納升三ツ八分四厘、内麦九石余、老若人数二人とある。
五条村
ごじようむら
[現在地名]琴平町五条、満濃町五条
金毘羅村の東、金倉川の上流域に位置する。地名は条里の五条にちなむ。金倉川が西に湾曲する涌井地区には出水が多く、北部の県農業大学校の東部一帯は弥生式土器の包含地である。南部の現仲南町・満濃町との境の三境山付近は古墳地帯である。元和七年(一六二一)に五条村の一〇〇石が金毘羅大権現に寄進されている(「生駒高俊寄進状」金刀比羅宮文書)。寛永国絵図では子松庄に属する。寛永一八年(一六四一)から一九年に幕府領となり満濃池御料となる。
五条村
ごじようむら
[現在地名]中主町五条
六条村の北東、野洲川と家棟川に挟まれた平地の中央部に立地。東十七・西十七の古代条里の数詞坪地名が残る。明応二年(一四九三)六月二七日の伊庭貞隆書下(兵主神社文書)に「五条村内堀内」とみえ、堀内は兵主社領として諸役・段銭・要脚などが免除されている。同六年のいろいろ帳(安治区有文書)に兵主一八郷の一として「五条村」がみえる。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「五条」とみえ、高五三八石余。
五条村
ごじようむら
[現在地名]奈良市五条町
斎音寺村の南にあり、唐招提寺の所在地。慶長郷帳の村高六二五・二〇七石。うち三二五・二〇七石は幕府領(代官大久保長安)、三〇〇石は唐招提寺領(慶長八年以降)。元和元年(一六一五)幕府領は郡山藩(水野勝成)領となり、廃藩置県まで同藩領。この間同藩の二割半無地高増政策で村高四〇六・七五石となる。享和郷帳には郡山藩領の五条村を「五条村之内今在家村」と注記。
五条村
ごじようむら
[現在地名]満濃町五条、琴平町五条
岸上村の北西に位置する。明治二三年(一八九〇)真野村などと合併し那珂郡神野村となり、昭和三〇年(一九五五)満濃町に合併、翌三一年に西部地区、同三二年に東部地区が琴平町に編入。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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