宮城県南部、亘理郡の町。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)荒浜町と吉田、逢隈(おうくま)の2村と合併。JR常磐(じょうばん)線、国道6号のほか常磐自動車道、仙台東部道路が通じ、双方の終点・起点となる亘理インターチェンジがある。北は阿武隈(あぶくま)川で境され、東は仙台湾に面し、西は亘理丘陵となる。中心集落の亘理地区は中世から近世にかけて、亘理、片倉、伊達(だて)各氏の城下町であり、また仙台城下へ通じる浜街道の要駅として栄えた。戊辰(ぼしん)戦争後の1870年から1881年にかけて、家中の2600戸以上が北海道へ移住して紋鼈(もんべつ)(現在の伊達市伊達紋別(もんべつ)地区)の町を開いた。阿武隈河口に位置する漁港の荒浜は、藩政時代舟運の起点で、米や木材の集散地として栄えた。海岸沿いの数列の砂丘、浜堤(ひんてい)ではイチゴ、野菜などが栽培され、後背湿地や海岸平野は水田となっている。ゴム、化学の工場の進出がみられ、仙台への通勤者も多い。称名寺(しょうみょうじ)境内のシイの巨木は国指定天然記念物。面積73.60平方キロメートル、人口3万3087(2020)。
[長谷川典夫]
〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では7メートルを超える津波に襲われ、死者283人・行方不明4人、住家全壊2389棟・半壊1150棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。2018年3月時点で、町は防潮林の整備、新庁舎・保健福祉センター建設事業など、残された復興対策事業を進めている。
[編集部 2019年10月18日]
『『亘理町史』3巻(1975~2008・亘理町)』
宮城県南東部,亘理郡の町。人口3万4845(2010)。阿武隈川下流南岸にあり,東は太平洋に面する。中心の亘理は,中世に千葉氏の一族が入部し亘理氏を称して支配した地で,近世には亘理伊達氏の城下町となり,浜街道の要地としても栄えた。明治維新後,亘理家中は北海道に行き伊達紋別(現,伊達市)を開いた。また阿武隈川舟運の起点荒浜は,江戸時代には石巻とともに江戸回米の積出港としてにぎわった。農業が主産業で米作が中心であるが,野菜やブドウ,リンゴも栽培され,東部海岸砂丘地域では施設園芸(イチゴ)が行われる。阿武隈川河口南部の潟湖鳥の海には,第2次大戦後新漁港がつくられ,沿岸漁業やカキ,ノリの養殖が盛んである。仙台湾新産業都市地区に含まれ,国道6号線沿いに電子部品や金属などの工場が進出している。JR常磐線が通り,仙台市のベッドタウン化も進み,人口は増加している。称名寺境内のシイノキは国指定の天然記念物。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明266人,全壊住宅2360戸にのぼった。
執筆者:千葉 立也
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