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細川清氏 ほそかわきようじ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

細川清氏
ほそかわきようじ

[生]?
[没]正平17=貞治1(1362).7.24. 讃岐
南北朝時代の武将。和氏の子。初名,元氏。左近将監,阿波守,伊予守,相模守を歴任。室町幕府草創期に功多く,正平7 (1352) 年正平の京都争奪戦に阿波から上洛し,足利義詮 (よしあきら) を救援,正平 13=延文3 (58) 年には2代将軍義詮の執事 (管領) となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

細川清氏 ほそかわ-きようじ

?-1362 南北朝時代の武将。
細川和氏(かずうじ)の子。足利尊氏,義詮(よしあきら)につかえ,延文3=正平(しょうへい)13年将軍義詮の執事。権勢をふるって佐々木高氏らにねたまれ,義詮に追放されると南朝方にはしり京都を攻撃。讃岐(さぬき)(香川県)で従兄弟(いとこ)の細川頼之(よりゆき)とたたかい,康安2=正平17年7月24日戦死した。初名は元氏。通称は弥八。

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朝日日本歴史人物事典の解説

細川清氏

没年:貞治1/正平17.7.24(1362.8.14)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。和氏の子。初名元氏,通称弥八。足利尊氏に従って軍功を重ね,観応の擾乱では有力武将として活躍。文和2/正平8(1353)年,山名時氏ら南朝軍の京都進攻の際には足利義詮方の殿軍を務め,後光厳天皇を鎧の上から背負って山を越え,近江・美濃へ逃れた。翌年若狭守護となり,幕府内でも引付頭人として重用される。文和4/正平10年,足利直冬を攻めて京都を奪回。延文2/正平12年,越前守護を望むが,尊氏に拒否され阿波に出奔。翌年尊氏が死去すると,義詮の執事となって権勢を振るった。しかし有力武将仁木義長を追放するなど,その旺盛な権勢欲と強引な分国拡張策は諸将の反感を招き,康安1/正平16年,義詮を呪詛したとの佐々木高氏(導誉)の讒言にあい失脚した。以後南朝に走り四国で再挙を図ったが,従兄弟の頼之と讃岐白峰城(香川県坂出市)に戦い討死した。<参考文献>小川信『細川頼之』

(小林保夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ほそかわきようじ【細川清氏】

?‐1362(正平17∥貞治1)
南北朝時代の武将。和氏の子。初名元氏,通称弥八。左近将監,阿波守,伊予守を経て相模守となる。足利尊氏に従って軍功を重ね,1353年(正平8∥文和2)山名時氏らの南朝軍による京都進攻の際には,足利義詮(よしあきら)方のしんがりを務めて敵の追撃を退け,後光厳天皇,義詮を擁して美濃に逃れた。翌年若狭守護さらに引付頭人となり,55年尊氏に従って,京都を占領した足利直冬を攻めてこれを追い,京都を奪回した。58年(正平13∥延文3)将軍義詮の執事となって権勢を振るったが,旺盛な権勢欲と強引な分国拡張策が諸将の反感を買い,佐々木高氏(道誉)の讒言により義詮からもうとまれ,61年(正平16∥康安1)若狭に退いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

細川清氏
ほそかわきようじ
(?―1362)

南北朝時代の武将。初名元氏。左近将監(さこんのしょうげん)、伊予守(いよのかみ)、相模守(さがみのかみ)。和氏(かずうじ)の子。尊氏(たかうじ)・義詮(よしあきら)に仕えて観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)などに勇戦し、若狭(わかさ)守護となり、1358年(正平13・延文3)将軍義詮から幕府執事(しつじ)に任ぜられ、幕府軍を率いて河内(かわち)の南朝方を攻めた。しかし軍功に誇って仁木義長(にきよしなが)を排斥し、越権行為などもあったため、京極導誉(きょうごくどうよ)(佐々木高氏)の讒言(ざんげん)により謀反の嫌疑を受け、61年(正平16・康安1)罷免、追討され、南朝に帰順していったん京都を侵したが、翌62年(正平17・貞治1)四国に赴き、幕命を受けた従兄弟(いとこ)頼之(よりゆき)と讃岐(さぬき)で戦い、7月24日に討ち死にした。[小川 信]

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世界大百科事典内の細川清氏の言及

【南北朝時代】より

…ただし守護級有力武将間の抗争は,なおときおり再燃した。義詮の任命した幕府執事細川清氏は性急な勢力拡大,職権強化をもくろんで佐々木高氏(道誉)らの武将と対立し,61年(正平16∥康安1)義詮から追放され,南朝に投降した末,翌年敗死した。その後任の幕府執事斯波義将も,その父高経ほか一族とともに66年(正平21∥貞治5)やはり高氏らとの対立の結果追放されたが,翌67年高経の病没とともに一族は帰参を許された。…

【若狭国】より

…53年(正平8∥文和2)には前守護時氏が将軍義詮に叛旗をひるがえし,南朝によって守護に還補されたものの,代官らが本郷氏などとしばしば合戦したあげく敗れて追い落とされた。54年以来の守護細川清氏の任期は比較的長く数年におよんだが,61年(正平16∥康安1),義詮に謀叛の疑いをかけられて若狭に下り,新守護石橋和義の軍に攻められて和泉堺に没落した。この間守護勢力は,あるいは荘園の年貢を半済(はんぜい)し,あるいは一国平均に軍役を課し,荘園諸職を闕所とするなど,随所でその圧力を強めつつあった。…

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